- 出演者
- 佐藤二朗 近田雄一 片山千恵子 佐久間宣行 トラウデン直美 伏見岳人
ことしの3月は日本で放送が始まって100年の節目の年、その立ち上げに深く関わった人物「後藤新平」を紹介。放送の生みの親といえる人物。1925年3月22日、日本でラジオ放送が始まった。最初の演説を行ったのが、東京放送局初代総裁「後藤新平」。
オープニング映像が流れた。
佐久間宣行さん、トラウデン直美さんを迎えて「後藤新平」について。佐久間さんは、復興や台湾に関することで学び、放送の祖である印象はないと話した。トラウデンさんは、コロナのパンデミックの際に後藤新平の活躍を初めて認識したと話した。後藤新平は、明治から昭和の初めにかけて多くのプロジェクトを成し遂げた政治家で、彼を象徴する言葉が「大風呂敷」。周りが無理じゃないかと言うところに果敢に挑戦していくのが後藤だった。
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- 大河ドラマ 鎌倉殿の13人後藤新平
最初に訪れたのは、NHK放送博物館。一番初めにラジオ放送が行われた時のスタジオが再現されていて、椅子と机とマイクだけの簡素なものだった。更に防音のために室内を閉め切ったところ、機材の熱で室温が急上昇したため、氷の柱を置くことで暑さをしのいだ部分も再現していた。1925年3月22日、ラジオ放送が開始した。
放送の生みの親、後藤新平とは。後藤新平が生まれ育った場所、岩手県奥州市にて調査。後藤新平記念館にやってくると、学生時代のノートが展示されていた。そこには医学書が書き写されており、後藤新平の仕事の原点は医者だったという。
1882年、後藤は日本を揺るがす事件に関わることになる。自由民権運動のリーダー「板垣退助」が暴徒に襲われ、負傷した板垣の元に駆けつけた医者が「後藤新平」だった。後藤の適切な治療によって、板垣は回復に向かった。板垣から、国家がより良く生きるとしたら何が必要だと思うか問われた後藤は、人間にも国家にも生理学が必要だと話した。生理学を突き詰めると病気の原因や治療の手がかりになる、後藤はそれを国家に当てはめ衛生環境の整備ができれば、より多くの国民を救うことができると考えた。板垣の治療を行った13年後、後藤は国家の病に向き合う。日清戦争を日本が優位に戦う中、中国大陸でコレラが発生した。派遣された24万人の兵がそのまま帰国すれば、国内で感染爆発が起こる危険性があった。対応を任された後藤は、兵士全ての検疫を行うことにした。国内3か所に建設された検疫所に兵士たちを集め検査を行う。
検疫所が作られた場所の1つ、広島県の似島を調査。帰国した兵士は一旦この島に集められた。兵士の乗る船が最初に到着する桟橋が検疫所の入口。兵士たちはコレラの症状の有無で分けられ、症状が出ている者は隔離された。無症状の兵士たちは上陸した後に、高熱の蒸気で衣類や持ち物を滅菌処理した。感染者と同乗した兵士は、無症状でも最大9日間停留。検疫をすり抜けたコレラ患者は37人、後藤の広げた大風呂敷でパンデミックの危機は免れた。
佐久間さんは、あの時代に今コロナ対策で行われたことと同じことを考えられたのは驚きだと話した。当時、施設内で実際に亡くなった人もいたが、パンデミックは未然に防ぐことが出来たという。世界でも稀に見る検疫規模だったため、地元の人たちは不安に感じたとのこと。不安解消のため後藤は「見学会」を開いた。一般の人たちを招いて、設備を動かしてデモンストレーションし施設内を自由に見学させた。
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1923年9月1日、関東大震災。マグニチュード7.9、死者・行方不明者10万人。近代日本史上最大の被害を出し、帝都は壊滅した。その翌日、大震災へ対応するため新しい内閣が発足した。山本首相に内務大臣を任された後藤は、「復旧にとどまらず、復興を企画すべし」と決意表明を残している。
東京千代田区にある市政会館、かつて東京市長も務めた後藤に関する資料を数多く保存している。2年前に発見された古い封筒には「後藤」の文字が記されていた。その中には、「地下鉄の設計図」が入っていた。当時東京は、人口増加に対応しきれず大混雑。東京の街を作り直す過程で通勤ラッシュを緩和しようと考えた。道路の建設や拡張、公園の整備など復興計画を打ち出していく。しかし後藤の大風呂敷は、厳しい批判にさらされる。震災で家や仕事を失った人たちを救うために、国家予算を使うべきだという声が上がった。
東京の大動脈の1つ「昭和通り」、後藤の復興計画の一環で作られた。後藤は車社会の到来を見越して、幅72メートルの道路を計画。しかし実際の幅は40メートルで、周囲から意見もあり規模を縮小したことが伺える。復興予算は13億円から5億円以下に縮小され、地下鉄の計画も消えてしまった。
復興か復旧か、今同じ判断を迫られても悩みそうな問題だとスタジオからは声が上がった。復興計画の予算は半分以下に縮小はされたが、今にも残る後藤の復興計画がある。東京を走る幹線道路「昭和通り」や「靖国通り」。隅田川にかかる「永代橋」も、鉄製の橋に再建された。隅田公園は、災害時の避難場所として整備された。復興計画を縮小せざるを得なかった理由について、後藤は「帝都復興の意義について、国民の理解を十分に得られなかった」としている。
岩手県欧州市の後藤新平記念館に、関東大震災の直後に起こった事件に関する資料がある。内務大臣として復興に携わった後藤が、天皇に宛てて出した「待罪書」。関東大震災の直後、不安に襲われた人々が自警団を結成し、朝鮮人などへの暴行や殺人事件がおきた。治安維持を担当する内務省が地震の直後に出した通達が、流言飛語に拍車をかけたとみられる。震災の2日後、状況を把握し始めた警視庁が「誤った情報を信じないように」と注意喚起を行った。東京を混乱に陥らせた流言飛語、同じ自体を起こさないように政府は方針として「大宣伝の実施」を示した。この時注目を集めたのが「ラジオ」だった。地震の翌年1924年、日本初のラジオ局「東京放送局」が誕生した。その総裁に任命されたのが、「後藤新平」だった。
スタジオでは、流言飛語の拡散は今にも通じるものがあるという意見が上がっていた。今の時代のテーマでもあるとのこと。当時もラジオ放送があったとしても、正しい情報を伝えなければ状況を悪化させた可能性があると専門家は話した。後藤は放送について、最も必要なのは放送を出す側、受け取る側の双方が倫理観念を持つこと。それができて初めて放送事業は成功すると述べている。
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NHK放送博物館で、ラジオ放送初日の様子を聞くと。簡素な作りだったスタジオは、社屋がまだできておらず、都内の学校を間借りして最低限の機材のみで放送開始に間に合わせたという理由があった。1925年3月22日ラジオ放送開始、第一声を届けたのは日本初のアナウンサー「京田武男」。初代総裁、後藤新平もマイクの前に立ち「放送の機能とは、文化の機会均等・家庭生活の革新・教育の社会化・経済機能の敏活だ」と話した。後藤が掲げたラジオの4つの役割を達成するには壁があった。
放送開始当時の状況がテープに残っていた。放送が始まった3月、ラジオを聞くことができた人の数は3500人。放送の意義が十分伝わっていなかった。ラジオに託した4つの役割を達成させるため、後藤は最後の大風呂敷を広げる。後藤たちは放送の原点となる取り組みを進めた。後藤たちが取り組んだのは、魅力あるコンテンツ作りだった。4つの役割につながる番組が用意される。更に受信機の普及にも取り組み、安く手に入れられるよう職員を派遣して各地でラジオの作り方を教えた。放送開始の翌年受信者は20万人を突破、日本にラジオの時代が到来する。ラジオ放送開始から4年後、後藤新平は71歳で生涯を閉じた。
スタジオでは、生涯を通して現役だったことがわかるとの声があがり、ラジオが後藤の集大成だったのだとかんじたという。後藤は自治にこだわり、ラジオ放送を通じた後藤のメッセージは100年たっても古びずに伝わってくると専門家は話した。1925年ラジオ放送開始後、1934年の室戸台風では臨時の番組編成が組まれ災害報道が行われる。その後、1953年にはテレビ放送が開始。戦後の経済復興にあわせテレビが急速に普及していく。1960年にはカラーテレビの放送が開始。今、受け手・届け手それぞれの信頼が揺らいでいる、互いに疑問と不安を持った上で信頼を構築することが大事だと佐久間さんはコメントした。
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「歴史探偵」の次回予告が流れた。
100カメの番組宣伝。
「大河ドラマ べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の番組宣伝。