2月15日、関西国際空港に釜山から来た趙英子さんがやってきた。趙さんは32年前に韓国人の私をお世話してくれた日本人のお姉さん・中田英子さんを捜しているという。趙さんは7年間、中田さんを捜しているが見つかっていないという。
1987年、泉大津市の紡績会社に趙さんは勤めていた。午前8時から12時間勤務をしている趙さんで韓国人1人、日本語も分からなかった趙さんは孤独だったという。工場契約は7ヶ月で、3ヶ月目に糸の紡ぎ方を練習していた趙さんに、中田さんが紡ぎ方を教えてくれた。中田さんは夏になると趙さんに浴衣を着せたり、休日になると奈良へ旅行に連れて行ってくれた。別れの時、趙さんは中田さんに日本語で別れの言葉を伝えることができなかったので再会して伝えたいという。
趙さんは恩人である中田英子さんを捜すため、写真を手に当時働いていた「三洋紡績」に向かった。しかし三洋紡績はなく、地元の人に聞いても手掛かりを見つけることは出来なかった。泉大津商工会議所に出向いた趙さんは、登録している企業を調べたが三和紡績ならあると言われた。製造拠点が中国となり、紡績会社は今は廃業したという。趙さんは離婚して育てて娘が巣立ち、独学で勉強して日本語検定2級も取得していた。去年も日本を訪れ、中田さんの家の前でもチラシ配りをしていた趙さんは、スタッフにある紙を見せてくれた。紙には欧陽菲菲の歌と中田さんの励ましのメッセージが書かれていた。
1987年、泉大津市の紡績会社に趙さんは勤めていた。午前8時から12時間勤務をしている趙さんで韓国人1人、日本語も分からなかった趙さんは孤独だったという。工場契約は7ヶ月で、3ヶ月目に糸の紡ぎ方を練習していた趙さんに、中田さんが紡ぎ方を教えてくれた。中田さんは夏になると趙さんに浴衣を着せたり、休日になると奈良へ旅行に連れて行ってくれた。別れの時、趙さんは中田さんに日本語で別れの言葉を伝えることができなかったので再会して伝えたいという。
趙さんは恩人である中田英子さんを捜すため、写真を手に当時働いていた「三洋紡績」に向かった。しかし三洋紡績はなく、地元の人に聞いても手掛かりを見つけることは出来なかった。泉大津商工会議所に出向いた趙さんは、登録している企業を調べたが三和紡績ならあると言われた。製造拠点が中国となり、紡績会社は今は廃業したという。趙さんは離婚して育てて娘が巣立ち、独学で勉強して日本語検定2級も取得していた。去年も日本を訪れ、中田さんの家の前でもチラシ配りをしていた趙さんは、スタッフにある紙を見せてくれた。紙には欧陽菲菲の歌と中田さんの励ましのメッセージが書かれていた。