1573年、武田信玄が死去。信玄と側室との間に生まれ、4男だった勝頼が当主となったが、他家へ寝返る者が続出した。翌年、勝頼は2万5000の兵を率いて、徳川方に寝返った高天神城を攻めた。戦況が長引けば、徳川軍の救援のため織田軍が駆けつけてしまう。武田軍は険しい崖がある東側から攻めたが、あくまで陽動。守りが手薄となったことで、比較的に傾斜が緩やかな西側から急襲し、調略に踏み切った。城兵の命を保証し、大将には恩賞を与えると約束したことで落城に成功した。織田信長は「勝頼は若輩なれど、油断できぬ」と書状に記している。
