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「沖大幹教授」 のテレビ露出情報

荒川の下流部は実は荒川放水路と呼ばれており、およそ100年前に人の手で造られた。その歴史をひもとくと洪水から首都を守ろうとした先人たちの志が見えてきた。かつての荒川は蛇行していることから過去に氾濫を繰り返してきたため新たに黄色で示した荒川放水路を人の手で建設。以前流れていた水色の部分は今、隅田川となっている。荒川放水路が造られるきっかけとなったのは明治43年の大洪水。東京の下町などに大きな被害が出たため東京中心部を守る治水対策として放水路の建設が計画された。川幅およそ500メートル、22キロもの距離を掘り進める大工事はおよそ20年に及び延べ300万人以上が動員された。都心側は市街地化が進み、洪水対策が急務だった。都心側の堤防をより強くして首都の防災を優先した。現在は両岸とも同じ強度にして地域全体を守っている。国家を挙げた巨大事業の指揮を執ったのは内務省の技師、青山士。中米パナマ運河の建設に日本人として唯一、携わった技術者だった。青山が工事で特に重要と考えていたのが放水路と隅田川の分岐点に建設した旧岩淵水門。上流からの水は通常、隅田川にも流れているが増水時には水門を閉めて水をせき止め、都心に近い隅田川の氾濫を防ぐことができる。
荒川放水路にかける青山士の思いが水門の構造から分かるという。近現代の建造物に詳しい文化庁の北河大次郎に話を聞いた。基礎の設計図面には当時としては珍しい工法が書かれていた。水圧に耐える強度を保つため当時、最新技術だった鉄筋コンクリートが使われた。川底におよそ18メートルもの深さの筒を12本も埋め込んだ。大正12年の関東大震災でも被害はなかった。青山が水門を建設してから100年、その後、造られた新たな水門が地域を守り続けてきた。しかし地球温暖化を背景に近年、各地で異常気象による災害が頻発している。関東甲信や東北の各地で堤防の決壊が相次いだ東日本台風では荒川でも氾濫の危機が迫った。水門を下ろし、隅田川に水を流さないようにした。水門が閉じられたのは12年ぶり。100年間、首都を守り続けてきた荒川放水路は、想定を超える災害が相次ぐ今、新たな課題が突きつけられている。
大都市を流れる荒川の流域には人口のおよそ1割が住んでいる。荒川が氾濫すると埼玉から東京にかけて3メートル、オレンジとかピンクのところになるだが3メートル以上、それから5メートル以上というところになっていて浸水想定区域にいる人は東京の東部の5区だけで250万人にも及ぶ。首都を洪水から守る取り組みというのは今も続いていて、堤防が削られるなどして決壊しないようにこの堤防の幅を通常よりもかなり広げ、その上に街をつくる工事それから鉄道の橋を架け替えて周囲よりも低くなっている堤防をかさ上げするという工事も行われている。さらには万が一浸水したことを想定して葛飾区になるが住民が独自にボートで救助訓練を行っているというものがある。こうした川を巡る状況について専門家は、100年200年に1度しか起こらなかった洪水が50年に1回、30年に1回になりつつある。被害から身を守るには早めの避難をするしかないとしている。

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