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「沖縄県平和祈念資料館」 のテレビ露出情報

80年前のきょう日本で初めて民間人が大規模に標的となったとされる沖縄などへの攻撃があった。米軍による10・10空襲。この日を転機に、無差別な空襲が国内に広がっていった。今こそこの空襲を知ってもらいたいという沖縄の人たちの思いがある。1944年10月10日。米軍は延べ1400機近くの航空機で沖縄県内各地や奄美諸島を攻撃した。空襲は午前6時40分からおよそ9時間、5回にわたり行われ1400人以上が死傷。住宅地を含む那覇市の9割が焼失した。そのとき、地上では何が起きていたのか。当時、那覇市に住んでいた山田和子さん96歳。それまで直接攻撃を受けたことがない多くの市民は日本軍による演習だと勘違いしていた。山田さんは学校の帰りに上空から機銃掃射を受けたと話す。山田さんは逃げきることができたがこの空襲による死者の多くは民間人だった。
沖縄で大きな被害を出した10・10空襲。これをきっかけに無差別な空襲が全国へ広がっていったと指摘する専門家もいる。太平洋戦争や兵器の研究を行っている仲程勝哉学芸員。ある兵器の存在が無差別空襲を全国へ広げたと分析している。米軍が公開した映像。米軍は焼い弾の実験を繰り返していた。地上に落ちると周辺を焼き尽くすため木造建築が密集する日本に効率的に打撃を与えると考えた。初めて日本に投下したとされているのが10・10空襲。米軍が作成した10・10空襲についての報告書。「那覇はしゃく熱地獄と化した」。攻撃の直後から大規模な延焼を確認していた。その上で仲程さんはこの空襲で日本軍の防空能力の低さが露呈したと指摘する。その後11月には東京、翌年には神戸や大阪、それに名古屋なども標的になり、3月10日の東京大空襲では10万人以上が命を落とした。10・10空襲がもたらした焼い弾による無差別攻撃。沖縄での被害を踏み台にして終戦直前まで全国各地で続くことになる。地上戦が行われ、県民の4人に1人が犠牲になった翌年の沖縄戦の始まりともいわれるこの10・10空襲を若い世代にも語り継ぐ取り組みは今も行われている。
住所: 沖縄県糸満市字摩文仁614-1
URL: http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/

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