富山・上市町の護摩堂地区を訪ねた際、29歳の空海は老婆に水を所望した。老婆は持ってくるまでに時間を要し、水源が無いので遠くの谷まで汲みに行っていたと明かす。空海が地面に杖を突き立てると、たちまち水が湧き出たという伝説がある。29歳というのは唐に留学する前で、北陸にまで足を運んだとは考えにくいという。空海の教えに救いを求め、高野山の僧となった人々は高野聖と呼ばれた。彼らの活動が綴られた史料があり、日本各地を勧進して寄付を集め、先祖供養の五輪塔を高野山にまで持ち帰った。平安時代末期、高野山は落雷による火災で甚大な被害に見舞われ、再興のために資金が必要だったという。資金を募る過程で高野聖たちは空海がいかに尊いかを説き、各地の名物、名所などの由来に空海をかかわらせた物語をつくり、説法を行ったという。そして、各地に残る空海伝説になったと考えられる。