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「満州事変」 のテレビ露出情報

東京港区にある放送博物館。今回の取材はその収蔵庫に眠る資料を掘り起こすことから始まる。放送初期から戦争に至るまでの貴著な記録。全てのページを確認すると3000を超える料理を紹介していたことがわかった。放送初日、総裁の後藤新平はラジオの使命は文化の機会均等であると宣言。老若男女階級などの壁を無くし、均等に電波を提供するとした。高等女学校への進学が15%に満たなかった当時、放送は特に女性の社会教育に重きをおいた。そこで、女性向け番組のために呼び寄せられたのが新聞記者として活躍していた大澤豊子。上司は大澤に「我々男子には、婦人や家庭のことは全くわからない。全部をあなたに任せるから、社会教育・家庭向上に放送の使命を遺憾なく発揮してほしい」などとと告げた。
どんな料理を紹介していたのか、各分野の専門家に読み解いてもらった。うどん・ナポリテーヌなどが記載されていた。和食だけでなく、西洋料理に中華・デザートまで、豊富なレシピは料理学校の先生やシェフたちが提供していたという。目新しい料理が並ぶ中、初回の放送はそれとは一線を画すものだった。1925年5月24日、栄養料理献立。初日は栄養の取れる料理を伝えていた。この日から栄養料理献立は毎日のように放送された。放送開始当時は関東大震災の混乱もあって不況が続き、人々は苦しい生活を強いられていた。その上食生活は米が中心。漬物や汁物意外のおかずを食べる習慣が浸透していなかった。著しい栄養の偏りで死亡者が出るなど、食生活の改善が急がれていた。
料理番組の内容を探るために、ある場所を訪ねた。佐伯矩は番組にレシピを提供した。当時知られていなかった栄養の知識を広めようとしていた。脂質を大切にしていたとのこと。意識的に油を使ったレシピを紹介していた。多くの人に役立つ情報を届けようとしたラジオにとって、佐伯の料理には大きな意味があった。
番組を任された大澤は西洋料理も取り入れた。タンパク質や脂質を取れるレシピで、食卓に彩りを与えようとした。秋山徳蔵など本物を知る人々を揃えた。赤堀旺宏にもレシピを提供してもらった。バナナアンドセロリーサラドのドレッシングの材料は油と酢など。若い頃から海外を渡り歩き、料理の腕を磨いた旺宏。西洋料理を日本の過程でも作りやすいように改良するのが得意だった。その一つがラジオで紹介したカキのグラタン。ホワイトソースは最小限の材料で作るなど、家庭向けに考え抜かれている。カキをバターで炒め、汁をホワイトソースに加える。そのソースをマカロニに絡める。少量のホワイトソースで、どこを食べても旨味を感じられるよう工夫した。
放送でソースと言われても、どんなソースで煮れば良いのかなどの声もあったという。東四柳さんは昭和初期の雑誌の記事を見せてくれた。料理名には漢字が多く、漢文の講義みたいだから聞くのを辞めたという批判などがあったという。手書きの原稿には試行錯誤の痕跡が遭った。
放送が軌道に乗る一方、昭和恐慌の煽りを受け、農村部は女性の身売りが起きるほど疲弊していた。そんな中、満州事変が勃発。放送では報道番組に限らず、軍事物を多く扱うようになっていく。国の統制が強まる中、女性向け番組を任されていた大澤は職場を後にした。その際「この職場をしっかりと踏みこらえて、婦人の力によって益々放送を生かしていくようにしていただきたい」と話した。糧友会は陸軍省と農林省が中心となって設立し、食糧問題の調査研究を行い、のちに調理や栄養を学ぶ学校もつくった。東京栄養食糧専門学校では管理栄養士や調理師を育成している。糧友会が考案したレシピは大切に保管されていた。戦地での調理用に考えられたため、持ち運びしやすいカードになっている。この中のレシピを家庭でも作りやすいように改良し、放送で紹介していたことがわかった。専門家によれば、うさぎの肉を使い始めた背景には満州事変が関係している。兵士用の毛皮として必要とされたうさぎ。農村部では副収入になると、うさぎの飼育が盛んに行われた。
農村部が疲弊の一途をたどる中、国は満州に27万の農業移民を送り込み、食糧増産を試みる。糧友会は、戦地を偲ぶお献立と題し、満州の穀物の使い方を伝える。米の節約になる高粱飯は国策に合致した料理だった。1940年、大政翼賛会設立。国民生活の統制がさらに強まる。政府は贅沢は敵だとのスローガンを掲げた。1941年3月31日、料理番組は放送休止になった。最後に紹介したのは摘草の料理。戦争が激しさをます中、家庭婦人にまで軍への協力を強いる放送が流れるようになった。この頃には家庭生活が立ち行かなくなるほど食料不足に陥っていた。終戦間際には野草を使った料理に関する記事が増えていく。終戦直前に野草の料理を食べていた人を取材した。小泉さんは「野草ってのは食べるまでの始末、調理するまでの始末が大変」などと話した。草をとるのが小泉さんの毎日の仕事だったという。
1945年、GHQ指導の元、放送は民主化に向けて一気に方針を転換する。真っ先に求められたのが女性の解放のための番組作り。プロデューサーには入局4年目の江上フジが抜擢された。江上が残した当時の放送内容を記録したノートには、女性の地位向上のために政治に関する情報を度々取り上げていた。市民生活は飢えを凌ぐのに精一杯の状況だった。街頭録音という番組では人々の生の声を放送した。江上は自ら街頭に立ち、人々の声に耳を傾ける。配給生活が続いていた当時、江上は本当に必要とされる情報を届けようと、奮闘した。1947年7月、女性向け番組の中で料理放送が再開。まずは配給される食材の生かし方を次々を紹介した。限られた食材から合理的に栄養を取る調理法をわかりやすく伝える。食材の扱い方を教えたうえで、様々な食べ方を紹介する。大山さんは1944年にアナウンサーになり、終戦後に配給だよりという番組で情報を伝えていた。番組ではタラの料理も初回した。
1953年2月、テレビ放送開始。放送は新しい時代を迎えた。江上が目指したのは女性に本当に必要とされる番組作り。1957年きょうの料理がスタート。江上は番組の指針をメモに残している。番組は手に入れやすい食材で、手軽に作れる日々の料理を届けようとした。赤堀全子は戦前に活躍した赤堀旺宏の長女で、料理学校の校長を務めていた。最初に伝えたのはご飯の炊き方だった。その教えを今に伝える料理学校を訪ねた。この日はグリンピースと桜えびの炊き込みご飯をつくっていた。かつて全子が番組で紹介した料理。江上は家庭料理について「家庭でのお食事を楽しいものにしたいものです」などと述べた。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年4月16日放送 22:00 - 22:45 NHK総合
歴史探偵(歴史探偵)
1940年、東京で万博が開かれる予定で、前売り入場券もあった。100万冊が発行され、銀行や郵便局で販売されたという。また、1940年に竣工した勝鬨橋は元々、万博のメインゲートとして造られていた。大阪・関西万博では約2800万人の来場者を見込んでいるが、幻に終わった東京万博は約4500万人を想定していたという。1938年、日本は世界58か国に招致活動を行うなか[…続きを読む]

2025年3月23日放送 23:00 - 0:15 NHK総合
メディアが私たちをつくってきた!?メディアが私たちをつくってきた!?
1925年にラジオが登場。街頭ラジオが設置されるやいなや街中の人が群がった。活字とは違う速報性や臨場感、娯楽も届けてくれる夢の箱だった。1937年から1938年の間にラジオは役割を大きく変えていった。満州事変以降、戦争への道を走っていた日本では経済や生活の全てを政府が統制することを認める国家総動員法が成立。国民を戦争に動員するための道具として政府が狙いを定め[…続きを読む]

2025年3月6日放送 13:00 - 15:48 NHK総合
国会中継参議院 予算委員会質疑
日本共産党 小池晃の質問。大船渡市の火事について政府をあげて大規模な被災者支援に取り組むことを強く求めたい。空襲の問題は法案も殆ど出来ている、戦後80年で決断の時だと思うがいかがかと質問。石破総理大臣は、空襲は大変な被害だが艦砲射撃による大きな被災もあるので不公平が無いように法案をよく読んで与党の議論を賜りたいと回答。小池晃は、旧安倍派会計責任者の参考人招致[…続きを読む]

2025年2月22日放送 15:05 - 16:18 NHK総合
カラーでよみがえる映像の世紀(映像の世紀)
1931年9月、満州事変が起きた。日本が利権を持っていた南満州鉄道での爆破事件をきっかけにはじまったが後に日本軍の謀略であったことが発覚した。翌年に軍は満州国の建国を宣言。国際連盟は満州に調査団を派遣し、日本の行動を自衛権に基づくものではないと結論づけた。日本は1933年3月に国際連盟を脱退した。日本は国際的孤立化の道を歩み始めた。アメリカでは新しい大統領に[…続きを読む]

2025年2月9日放送 19:58 - 20:56 テレビ朝日
ポツンと一軒家長野県のポツンと一軒家
長野県の山奥に住む熊谷家。年末には長男・長女が墓参りで帰省するということで1ヶ月後、再びスタッフが訪れた。家には智子さんと長女の洋子さん夫婦がおり、定期的に病院へ一緒に行っているという。元々牛舎だったため天井まで170cmで低かった。すると長男の和広さんも合流。和広さんも週末には戻ってきていると話す。そして家族が勢揃いしたところで足の悪い昇平さんを残して敷地[…続きを読む]

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