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1929年10月、ニューヨーク・ウォール街の株価が大暴落。この経済恐慌は瞬く間に世界に広がり、空前の規模の大不況が世界を覆った。絶望した人々の不安を背景に登場したのが強力な指導者たちだった。今回は世界が大恐慌に打ちひしがれた1930年から、第二次世界大戦に突入する1939年までの時代を、ヒトラー率いるドイツを中心に描く。
1932年、ワシントンでは生活にあえぐ退役軍人が恩給の先払いを求め全国から集まった。退役軍人たちは家を手放し行き場もなく、家族とともにワシントンの中心にバラックを作って生活を始めた。その数は2万人に上る。これに対して政府は軍隊を導入した。指揮したのは当時の陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサー。この頃アメリカでは1000万人を超す失業者があふれ、革命の危機さえ公然と語られる時代だった。
資本主義国家が大恐慌の混乱に苦しむ中、スターリンが率いるソ連は共産主義の勝利を宣言し、めざましい経済発展を誇示するプロパガンダ映画を数多く作成した。首都モスクワの地下鉄建設では豪華な施設が作られ、スターリンはソ連の威信を示した。工事を指揮したのは後のソ連共産党第一書記で首相も兼ねたニキタ・フルシチョフ。地下鉄建設の過酷なノルマを達成したことでフルシチョフはスターリンから高い評価を受けた。アメリカが撮影した大恐慌のフィルムを使ってソ連が編集したプロパガンダ映画からは、ソ連が資本主義国家アメリカをどのように見ていたか伺える。大恐慌の影響を受けず経済発展を遂げていたソ連を数多くの人々が訪問した。しかし、ソ連が誇る経済発展の裏には反体制と目された人々が強制労働に従事させられたり、大量に処刑されたりした事実があった。
この頃、第一次大戦の敗戦国ドイツでは大恐慌の影響が特に深刻だった。ドイツで職を失った人は600万人。3人に1人が収入の道を絶たれ住む場所もない状態だった。この時、ドイツ民族の復興を全面に掲げたアドルフ・ヒトラーが率いる国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチスが人々の心をひきつけた。ヒトラーは民主主義を否定し、自らの独裁によって責任を持ってドイツ民族を救うと訴えた。ドイツとの国境にあるオーストリア・ブラウナウで、ヒトラーは1889年に生まれた。ヒトラーが政治家になったきっかけは第一次大戦でのドイツの敗戦だった。32歳の時にヒトラーはミュンヘンで武力による政府の転覆を計ったが失敗し投獄された。この体験を機にヒトラーは選挙によって合法的に政権を獲得することを決意した。ヒトラーが獄中で自分の考えを口述筆記したものが『我が闘争』だった。独裁を目指したヒトラーはイタリアの独裁者ムッソリーニにやり方を真似、右手を上げる敬礼を取り入れた。さらに、反ユダヤ主義を表す鉤十字をナチスのマークに取り入れた。また、膨大な量のビラまき、飛行機を駆使した遊説などを行い、当時新しいメディアだったラジオも導入し人々の心を掴んでいった。ヒトラーは突撃隊と呼ばれる軍隊を組織、その規律ある行動は特に若者に魅力的に見えたという。
1933年1月30日、ヒトラーは首相の地位を手に入れた。ヒトラーが支持を獲得した理由の一つには優れた演説の技術があったとされている。ナチスが宣伝のためにヒトラーの演説を記録した映画では、巧みに観衆の心を掴むヒトラーの演出を見ることができる。登場したヒトラーはざわめきが収まるまで辛抱強く待ち、静かに演説を始め、矛先が敗戦後ドイツ革命によって成立したワイマール政府への批判い至ると次第に高まりを見せた。ヒトラーの演説の特色は同じ言葉の繰り返しにある。2時間を超える演説のクライマックスでヒトラーはドイツ国民一人ひとりの民族としての誇りに訴えかけた。演説の終わりには闘争の貫徹を歌うナチスの党歌。こうしてナチスの時代が始まった。
1931年9月、満州事変が起きた。日本が利権を持っていた南満州鉄道での爆破事件をきっかけにはじまったが後に日本軍の謀略であったことが発覚した。翌年に軍は満州国の建国を宣言。国際連盟は満州に調査団を派遣し、日本の行動を自衛権に基づくものではないと結論づけた。日本は1933年3月に国際連盟を脱退した。日本は国際的孤立化の道を歩み始めた。アメリカでは新しい大統領にフランクリン・ルーズベルトが就任した。労働条件の改善を求めてアメリカ全土でストが頻発した。社会不安を背景にアメリカにもナチス勢力が台頭した。イタリアではベニート・ムッソリーニがファシスト党による一党独裁を敷いていた。
ヒトラーは政権獲得後、映画部を設置しカメラマン部隊を配属した。その映像には民族復興の第一歩とされたヒトラーの国内政策が記録されていた。失業者対策としてヒトラーは民族の誇りをキーワードに大規模な公共事業を起こした。またヒトラーは国民誰もが乗れる格安の国産車フォルクスワーゲンの設計をポルシェに依頼し大量生産を試みた。ヒトラーは全ての政党を解体し自らを総統と称し、ナチスの千年王国が成立したことを宣言した。
ユダヤ人への弾圧では突撃隊や親衛隊がユダヤ人商店へのボイコットを行った。ユダヤ人へのヒトラーの弾圧のはじまりだった。ナチスはドイツ的でないと判断した書物を焼いた。ヒトラーは政権獲得直後にナチスへの敵対者をユダヤ人に扇動された運動家として検挙した。ユダヤ人やナチズムに反対する人たちがドイツから国外へ亡命した。
南満州鉄道株式会社の特急あじあ号は当時時速110km/hを誇る世界でも最高水準の列車だった。1936年8月にはベルリンオリンピックが開かれた。1937年7月に盧溝橋で起きた発砲事件がきっかけで日中の全面戦争がはじまった。上海では凄惨な戦闘となり戦争は泥沼の様相を帯び始めた。
1935年、ヒトラーはベルサイユ条約によって保有を禁じられていたドイツ空軍の存在を明らかにした。ベルサイユ体制に真っ向から挑戦したのだ。ヒトラーは義務兵役制を復活し大規模な軍事力増強を発表する。ヒトラーはドイツ民族が生存するための領土をロシアと東ヨーロッパに獲得することを目指していた。1936年、いよいよドイツ民族領土獲得のための第一歩を踏み出した。手始めは、ラインラントへの進駐だった。ラインラントはドイツ敗戦後、非武装地帯と決められた地域だ。進駐は既成事実として国際的に承認されることとなった。4か月後、スペインで起きた内戦は国際紛争となり第二次大戦の前哨戦とも言われた。この時ヒトラーはフランコ将軍を援助し、ドイツ軍をスペインに送り込む。ヒトラーの目的の1つは、スペインの内戦をドイツ軍の兵器の実験場とすることだった。
ヒトラーは外交的孤立を避けるために日本やイタリアとの接近を図る。1937年11月、日独伊三国防共協定が成立。ヒトラーは次の領土的野心を生まれ故郷のオーストリアに向けた。ヒトラーのオーストリア併合の夢はナチスのバイブルとも言われる「我が闘争」の冒頭に語られている。1937年に入るとヒトラーはオーストリア併合の機会を狙い活発な策略を開始する。街頭での騒乱などを頻繁にお越しオーストリアのドイツへの併合を訴えた。ヒトラーの手口は、併合を狙う地域にナチス勢力を作り内部から切り崩していくというものだった。1938年3月、ヒトラーはオーストリア在住のドイツ人が迫害されているとの理由でオーストリアへ進駐する。ドイツの首相となってわずか5年、ヒトラーは武力衝突を起こすことなく領土拡大に成功したのだった。
ヒトラーの次の狙いはチェコ・スロバキアであった。ヒトラーはズデーテン地方の併合を要求した。この頃ドイツのニュース者はズデーテン地方のドイツ系住民が迫害を受けているというプロパガンダ映画を盛んに作った。ヒトラーの強硬な態度に対しチェコ・スロバキアは総動員令を発した。ネビル・チェンバレンは国際会議開催に最後の望みを託した。1938年9月29日にミュンヘンに各国首脳が急遽集まった。会談の行方を世界が見守った。ヒトラーは領土的要求はこれが最後であると明言した。会談はヒトラーの要求をほぼ全て認めることで合意となった。チェコ・スロバキアの犠牲を強いる形で戦争の危機は回避された。チェンバレンはイギリス国民の大歓迎をうけた。一方ヒトラーはその翌日即座にズデーテン地方に進駐。ドイツ系住民から歓迎をうけた。ヒトラーはその後ポーランド侵攻を決意した。ドイツ軍はポーランドを攻撃、これに対しイギリスはドイツに戦線を布告した。そして第2次世界大戦が始まった。
エンディング映像。
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