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オープニング映像。1895年、パリで1分間の動く映像がスクリーンに映し出された。最新式の映写機で光を集めるのは水の入ったフラスコ。光源はアーク灯。この時上映された「工場の出口」が世界で初めての本格的な上映作品。映像技術はその後発達し、20世紀は動く映像として記録された最初の世紀。
世界に残る映像記録を集めて今世紀初頭の時代を描くことを試みる。第1回は、世紀末から第一次世界大戦の始まる1914年まで。
1900年のパリは印象派の世界から抜け出たような人々の姿。パリは世界で初めて飛行船が飛んだ街。1900年にパリで万国博覧会が開かれた。それに合わせて開通された地下鉄は博覧会の目玉だった。この博覧会を夏目漱石が訪れている。この頃のパリジェンヌのファッションについて写真家が語っている。パリの路地裏では決闘が行われていた。
パリ郊外にあるジベルニーで絵を書き続けていたのがクロード・モネ。モネたちの印象派が初めて認められたのはこの博覧会において。オーギュスト・ルノワールの晩年が映像に残っている。万国博で大人気を博したのがアメリカ人女性の踊りだった。博覧会ではエッフェル塔に巨大なスクリーンを吊るし映画を上映しようとする試みがあった。発案者がルミエールだった。
リュミエールの動く映像を「シネマトグラフ」という。リュミエールの映像を見たロシアの作家・マキシム・ゴーリキは「シネマトグラフはまるで黄泉の国だった、人々の笑みから声は聞こえない、私はこの発明を称賛しないが重要性は認識している、人間の生活と精神に影響を及ぼすであろう」などと話した。シネマトグラフが人気を集めるとカメラマンは世界各地に撮影にでかけた。
1901年、夏目漱石はヴィクトリア女王の葬列に参加した。葬列にはドイツ皇帝のウィルヘルム2世も参列していた。彼はヴィクトリア女王の孫。ヴィクトリア女王の長男・エドワード7世の息子・ジョージとウィルヘルムはやがて第一次世界大戦を敵同士として戦う。
この時代に多く撮影されたのはスピードの世界。ライト兄弟が初めて空を飛んだのは1903年でその後の公開飛行の映像が残っている。ルイ・ブレリオの人気で、当時は飛行機ダンスがロンドンで流行った。
20世紀初頭のロシアを案じていたのが、文豪レフ・トルストイだった。この時代は文豪がスーパースターとしてもてはやされた。1904年、トルストイはイギリスのタイムズに日露戦争に対する反戦論を発表している。トルストイは「一方は殺生を禁じた仏教徒で、一方は世界の兄弟愛を公言するキリスト愛だというのに、傷つけ合い殺戮を繰り返そうとしている、これは夢ではない」などとした。日露戦争は多く映像が残されているが、その多くが後に作られた映像。日露戦争当時の東京の様子も映像に残っている。
旅順陥落の2週間後、ベルリンからペテルブルグに向かう電車に乗っていた女性が目撃したのは血の日曜日事件で騒然としたペテルブルグだった。彼女の記録は帝政ロシア末期の姿を垣間見ることができる貴重なもの。このイサドラ・ダンカンはモダンダンスの祖とも呼ばれている。ダンカンは血の日曜日事件の犠牲者の葬列を見た。血の日曜日事件の映像は後に作られたとみられている。血の日曜日事件以降、ロシア全土でストライキや暴動が起きるようになり、国力は疲弊していった。
ロマノフ家はこの時も巨万の富を抱えていた。最後の皇帝・ニコライ2世の私的な生活を捉えた映像が残されている。帝政ロシアの深刻な事態を前にした権力者としての苦悩を感じることは出来ない。イサドラ・ダンカンがニコライ2世の前で踊ったのはこうした事態の時。1909年、トルストイの肉声が残されている。「人間には他者への義務だけでなく自らの中に宿る精神に対する義務がある」と話している。最晩年を迎えたトルストイは全てに絶望して沈黙を守るようになる。トルストイは家出をして1人汽車に乗って南へ向かい、途中の駅で倒れ帰らぬ人となった。トルストイが最後に書いた手紙はガンジーに宛てたものだった。トルストイは「愛の法則は暴力が認められると無価値となり、権力という法則だけが存在する、あなたの活動こそ最も重要なものと信じる」としている。
清王朝も300年の歴史を閉じようとしていた。1900年の義和団事件が列強の進出に拍車をかけることになる。1909年に撮影された北京の映像を紹介。中国のこの時代の映像は正確な年代や場所を特定できないものがほとんどだ。孫文は祖国の再建と外国支配からの独立を掲げた政治運動を行っていた。清朝末期に西洋のカメラマンが撮影した映像の中にも当時の中国を読み取ることができる。1911年、武昌で辛亥革命が始まったときの映像を紹介。翌年、孫文を臨時大総統とする革命政府が成立する。
20世紀が始まって10年ほどたった頃の映像に残る世界の出来事を紹介。タイタニック号は処女航海で遭難し、1503名が犠牲になった。1910年、白瀬中尉が南極探検に出発。1912年、イギリスのダービーで婦人解放運動の女性が国王の持ち馬に向かって身を投げた。
コニーアイランドのイルミネーション。この電力消費はアメリカの国力の証明でもあった。20世紀初めの10年間はアメリカに最も多くの移民が押し寄せた時期だった。チャップリンがアメリカに来たのもこの頃だ。マンハッタン南部の移民街を紹介。アメリカが巨大国家への道を歩むきっかけとなったのは、1908年のフォードT型車の発表。フォードシステムと呼ばれる大量生産方式は20世紀の生産革命となる。映画も発達し、俳優という職業が生まれた。1907年、アメリカ艦隊の世界一周航海。セオドア・ルーズベルトの演説には、その後の世界におけるアメリカの立場が明瞭に表れている。
1914年6月28日、サラエボ市庁舎前の映像。第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件の当日に撮影された。映像には不可思議な動きをする人物が写っている。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世と、ハプスブルク家皇太子フェルディナンドの鹿狩りの映像。ドイツとオーストリアは友好国だったが、ドイツを嫌っていたフェルディナンドの歓心を買うためため、ウィルヘルム2世はプライベートな接触を持っていたという。20世紀に入り、ドイツはひたすら軍備拡張を進めていた。フェルディナンド夫妻が訪れたサラエボには、民族独立を唱えるいくつもの暗殺団が潜伏していた。最初の映像は、未遂に終わったテロのすぐ後に撮影されたものだった。その後、フェルディナンド夫妻は再びテロに遭い、凶弾に倒れた。ほどなく第一次世界大戦の火蓋が切られる。ウィルヘルム2世が出征する兵士に向けた言葉が録音に残されている。20世紀初頭の世界、映像は世界の王朝の末期の姿を記録していた。
エンディング映像。
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