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オープニング映像。
今世紀始め、オーストリア=ハンガリー帝国を治めたハプスブルク家では第一次世界大戦のきっかけとなる出来事が起こった。第一次世界大戦前夜のオーストリア=ハンガリー帝国は欧州の中心部を支配する巨大な多民族国家であり、フランツ・ヨゼフ1世の下に統一されていた。当時の欧州列強は地球の5分の4を植民地としており、その植民地獲得競争に伴う軍備拡張と外交戦争が続いていた。大英帝国のジョージ5世やロシア帝国のニコライ2世、統一から間もないドイツ帝国のウィルヘルム2世。彼らの下で欧州は既に一触即発の状況にあった。
事件が始まったのはバルカン半島、サラエボであった。オーストリア皇太子のフェルディナンド夫妻が帝国からの独立を主張するセルビアの民族主義者によって暗殺され、オーストリアはセルビアに宣戦を布告。オーストリアと同盟を結んでいたドイツも参戦し、セルビア側にはロシア帝国、フランス、大英帝国が連合して与し、ドイツに宣戦を布告する。1914年7月、第一次世界大戦の始まりである。
ドイツ帝国が宣戦を布告した当日、450万人の若者が兵士として動員された。50年にわたり戦争から遠ざかっていた欧州の若者たちには戦争の記憶などなく、当時のドイツ人青年の手記には戦争への期待と徴兵される喜びが綴られていた。開戦に熱狂するドイツの群衆の中には、後にドイツ第三帝国指導者となるアドルフ・ヒトラーその人もいた。ヒトラー自身も「我が闘争」において、ドイツ人が戦うことへの誇りを記している。
一方、徴兵制が存在しなかった大英帝国では一般の市民から兵士を募った。愛国心を鼓舞するポスターの下で1月に50万人の兵士が招集され、中には同郷の友人だけで構成された「友達部隊」なるものまで登場した。こうして開戦から1ヶ月の間に欧州では1000万人以上の人が動員されたが、国の指導者から兵士に至るまでの全員がこれから始まる戦争は1週間程度で終わると考えていた。
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- ロンドン(イギリス)第一次世界大戦
戦争開始直後、100万人以上のドイツ軍がフランスへ向かった。開戦当時は兵士たちの移動手段は馬や徒歩、破壊力の最も大きな武器は大砲という古式ゆかしい戦争だった。砲撃の後に騎兵突撃により決着をつけるという戦法はナポレオン時代からの伝統で、栄誉ある突撃を担当する騎兵は花形の舞台として持て囃された。しかし、彼らを待ち受けていたのは全く新しい兵器、機関銃であった。機関銃はたった1台で1つの部隊に匹敵する威力を持っており、伝統的な突撃戦法を命じられた兵士たちはことごとく機関銃に撃ち倒され、おびただしい数の死体となっていった。
機関銃の威力を前にしたドイツ軍の進軍は停止し、フランスとの西部戦線とロシア帝国との東部戦線の2つの戦線でドイツ軍は敵と対峙した。ドイツに奪われたポーランドの奪取を試みるロシア帝国もまた、機関銃に前進を阻まれ戦線は膠着する。疲弊した物資と兵員は各国の植民地からの動員で賄われることになり、仏領インドシナや英領インド、といったアジアや仏領セネガルといったアフリカからの兵士や中国人による労働者などが激化する戦争を支えた。こうした植民地兵の数は300万人を超えた。
1914年、パリではフランス陸軍がルノータクシー600台を動員して兵士の輸送を行い、ロンドンの2階建てバスもまた西部戦線へと投入され戦線を支えた。同様に戦争で活用されたのが女性たちで、男性に代わる労働力としての他に女性兵士も登場する。イギリスの女性兵士たちは武器の輸送や通信を担当する兵士として戦争に参加し、こうした女性の社会進出は戦後の参政権獲得へと繋がっていく。
第一次世界大戦の開戦から5ヶ月、ドイツの巨大飛行船「ツェペリン」がロンドンへの爆撃を行う。第一次世界大戦では初めてこうした空襲が行われ、子供たちの疎開も始まった。
戦争が始まってわずか1か月で戦法が大きく変わった。塹壕線の始まりだ。敵の砲弾などから身を守りながら近づくために兵士たちは地面に塹壕を彫った。塹壕の前には鉄条網が張り巡らされ敵の突撃を防ぐ。攻撃方法も変わった。塹壕の中の敵に砲火を浴びせ敵を疲労させるという消耗戦の始まりだ。腕時計が兵士の間に広まったのは塹壕戦を通じてだった。兵士たち全員が正確な時間に合わせ行動することが必要となったためである。西部戦線では両軍が互いに塹壕の裏側に回り込もうと掘り進めた。長引く塹壕戦では様々な工夫が試みられた。
塹壕の兵士たちを悩ませたのは雨だった。長引く塹壕戦によって兵士たちの間に新しい症状が蔓延し始めた。長時間冷たい泥水の中に立っていたため足が一種の凍傷と水虫にかかっていく。これは塹壕足と呼ばれ第一次大戦特有の症状だった。戦場の撮影を限られたカメラマンは各国数名ずつに限られた。塹壕の中を記録した1分間のフィルムが残っている。オーストリア軍の塹壕をアメリカ人のカメラマンが撮影したもの。フィルムには画面中央の兵士が撃たれる瞬間が記録されている。フランスの将校が密かに撮影したフィルムが遺品から見つかった。当時、母親が涙を流すような映像は上映禁止だった。特に死体の撮影は厳禁で無断撮影は死刑となる。西部戦線で撮影された隠し撮りのフィルムには死刑を荷車に積む様子が記録されていた。
当時オスマン・トルコ帝国の一部だったパレスチナ。トルコは国内に多くの民族を抱え常に分裂の危機を孕んでいた。アラビアのロレンスは、アラブに協力しトルコを撹乱する任務を帯びていた。大英帝国の植民地・インドで、市街兵募集にあたっていたのがガンジーだった。自叙伝では「大英帝国に協力した方が返ってインドの利益になる」などと記されている。移民の国アメリカはまだ中立の立場を保ち軍需景気に沸いていた。戦場の食料として缶詰の大量生産もこの時から始まる。ハリウッドが急速に発展するのもこの時期。ヨーロッパ映画が戦争で衰退したためハリウッド式の娯楽映画が次々と作られ輸出された。日本は大戦が起きるとドイツに宣戦布告し青島へ出兵した。日本の主な産業だった生糸の輸出額は軍需景気によって4倍に跳ね上がり、日本はこの戦争でアメリカに次ぐ利益をあげた。成金という言葉が大流行したのもこの時期。
1915年、戦争2年目の西部戦線。この時期の映像には長引く戦局を打開するために研究された新兵器や戦術が次々と登場する。毒ガスは各国で密かに開発が進められ大戦中3000種にものぼる化学兵器が開発された。初めて毒ガスを実戦に使ったのはドイツだった。120トンの塩素ガスをまき、5000人の死傷者が出た。ガスマスクはわずか1年間で次々に改良された。毒ガス開発者の中には、後に原爆開発に携わった科学者もいた。敵の目を誤魔化して相手の塹壕に接近する方法も考えられた。カモフラージュ部隊の登場だ。木の葉を身につける方法は、敵と味方の区別がつかなくなり実戦で使われることはほぼなかった。おとりの兵士像も作られた。
フランスで開発された新兵器は、敵の弾を避ける盾の役目をする。兵士が入りほふく前進で敵に近づく。イギリス軍とフランス軍によって実戦でも使われた。戦争が始まって2年後、塹壕戦を制する決定的な兵器が登場する。世界初の戦車「マークI」だ。各国は総力を挙げて戦車を開発していく。また初めて飛行機の爆弾が積めこまれた。改良が進み空中戦が始まる。
砲弾の飛距離を伸ばすために大砲も巨大化する。新兵器の開発・改良によって戦争は大量殺戮の度合いを日ごとにエスカレートさせていった。第一次大戦で使われた薬莢は約13億発。日露戦争全体で使われた砲弾の500倍にあたる。前線での負傷者は1日平均1万人を超えた。塹壕の兵士に前例のない症状が現れ始めた。麻痺や意味不明な言動など、絶え間ない砲弾の音を聞き続ける恐怖が原因だった。後にシェルショックと呼ばれる病気だ。シェルショック患者はイギリスだけでも12万人にのぼった。
ユトランド沖海戦でドイツは敗北し食料や物資の不足に苦しむ。海戦に敗れたドイツが巻き返しを図ろうと導入したのが潜水艦「Uボート」だった。Uボートは軍事物資を運ぶ民間船をも攻撃し、無差別攻撃の始まりである。まだ戦争に参加していなかったアメリカの民間船も攻撃にさらされ、後にアメリカが参戦する理由の一つとなった。ドイツは海上封鎖で物資の補給を絶たれ、一方イギリスやフランスはUボートによって輸送船を破壊された。その結果、各国で食料や物資が極度に不足してきた。
1917年の冬。ロシアは開栓後1か月で武器や弾薬が底をつき始め、人々の不満はロシア皇帝に向けられていった。女子労働者のデモをきっかけに人々がニコライ2世の退位を要求したのがロシア「2月革命」。皇帝一家はシベリアで銃殺刑となりロマノフ王朝は滅亡した。さらにその年の10月に戦争の中止を求めて10月革命が起こった。社会主義を打ち立てたレーニンは内外に戦争の中止を訴えソビエトは戦争を離脱した。すると、7カ国が混乱に乗じてシベリアに出兵した。日本は大戦が終わってからもシベリアに留まったため国際的な非難を浴びた。
アメリカは巨額の貸付金が回収できなくなることを恐れ、大戦への参戦を決めた。参戦後、ドイツを攻撃するキャンペーンが行われる。徴兵はくじ引きで決められた。黒人も入隊し、物資の運搬などの単純作業に従事されられた。戦争資金を集めるために公債の募集が始まり、戦争反対を違法とする法律も作られた。
アメリカ軍には多数のカメラ隊が同行した。ドイツ軍は西部戦線に総攻撃を仕掛けるが、イギリス・フランス軍はアメリカ軍とともに反撃を開始し、ドイツ軍に壊滅的な打撃を与えた。11月、ドイツ革命が起こり、病室でそれを知ったヒトラーは政治家になることを決意したという。1918年11月11日に休戦が決定した。
1918年10月にチェコスロバキア、ハンガリーが独立。第一次世界大戦は大量破壊・大量殺戮という現在のシステムを生み出した。死亡した兵士は900万人。ウィンストン・チャーチルはこの戦争について「戦争からきらびやかな美が奪い取られた、これからの英雄は安全で静かな部屋で座り、兵士が電話1本で殺される、これからの戦争は一般人も殺されるだろう、人類は初めて自分たちを絶滅させることができる道具を手に入れた」などとしている。
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2025年2月1日(15:05)