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「我が闘争」 のテレビ露出情報

ドイツ帝国が宣戦を布告した当日、450万人の若者が兵士として動員された。50年にわたり戦争から遠ざかっていた欧州の若者たちには戦争の記憶などなく、当時のドイツ人青年の手記には戦争への期待と徴兵される喜びが綴られていた。開戦に熱狂するドイツの群衆の中には、後にドイツ第三帝国指導者となるアドルフ・ヒトラーその人もいた。ヒトラー自身も「我が闘争」において、ドイツ人が戦うことへの誇りを記している。
一方、徴兵制が存在しなかった大英帝国では一般の市民から兵士を募った。愛国心を鼓舞するポスターの下で1月に50万人の兵士が招集され、中には同郷の友人だけで構成された「友達部隊」なるものまで登場した。こうして開戦から1ヶ月の間に欧州では1000万人以上の人が動員されたが、国の指導者から兵士に至るまでの全員がこれから始まる戦争は1週間程度で終わると考えていた。
戦争開始直後、100万人以上のドイツ軍がフランスへ向かった。開戦当時は兵士たちの移動手段は馬や徒歩、破壊力の最も大きな武器は大砲という古式ゆかしい戦争だった。砲撃の後に騎兵突撃により決着をつけるという戦法はナポレオン時代からの伝統で、栄誉ある突撃を担当する騎兵は花形の舞台として持て囃された。しかし、彼らを待ち受けていたのは全く新しい兵器、機関銃であった。機関銃はたった1台で1つの部隊に匹敵する威力を持っており、伝統的な突撃戦法を命じられた兵士たちはことごとく機関銃に撃ち倒され、おびただしい数の死体となっていった。
機関銃の威力を前にしたドイツ軍の進軍は停止し、フランスとの西部戦線とロシア帝国との東部戦線の2つの戦線でドイツ軍は敵と対峙した。ドイツに奪われたポーランドの奪取を試みるロシア帝国もまた、機関銃に前進を阻まれ戦線は膠着する。疲弊した物資と兵員は各国の植民地からの動員で賄われることになり、仏領インドシナや英領インド、といったアジアや仏領セネガルといったアフリカからの兵士や中国人による労働者などが激化する戦争を支えた。こうした植民地兵の数は300万人を超えた。
1914年、パリではフランス陸軍がルノータクシー600台を動員して兵士の輸送を行い、ロンドンの2階建てバスもまた西部戦線へと投入され戦線を支えた。同様に戦争で活用されたのが女性たちで、男性に代わる労働力としての他に女性兵士も登場する。イギリスの女性兵士たちは武器の輸送や通信を担当する兵士として戦争に参加し、こうした女性の社会進出は戦後の参政権獲得へと繋がっていく。
第一次世界大戦の開戦から5ヶ月、ドイツの巨大飛行船「ツェペリン」がロンドンへの爆撃を行う。第一次世界大戦では初めてこうした空襲が行われ、子供たちの疎開も始まった。

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