最上義光は東北の大名たちと連合軍を結成し、南方の徳川軍と共に上杉軍を挟撃するはずだった。だが、石田三成が挙兵したため、徳川軍は対処するほかなく、東北の大名も領地へ引き揚げてしまう。最上軍は多くの城を明け渡し、一部の山城を要塞化。巨大な堀が城を囲み、山城の斜面に11段の帯曲輪をもうけた。各段に鉄砲兵を配置することが可能となる。関ヶ原の戦いでは徳川家康が西軍に勝利し、敗報がもたらされると上杉軍は撤退。城で守ってきた最上軍は追撃を開始し、最上義光は戦場で鉄製の指揮棒を振るったとされている。残された兜には弾痕があり、戦いの壮絶さを物語る。そして、最上軍は庄内地方を上杉軍から取り返すことに成功。