1585年、徳川と真田との間で第一次上田合戦が勃発。不利になった徳川軍が撤退すると、別働隊を率いる信之が奇襲を仕掛けた。川で溺死する兵士など、徳川軍1300人が命を落とした。1600年9月15日、関ヶ原の戦いが起きるが、数ヶ月前に西軍からの手紙が昌幸、東軍である徳川家康の手紙が信之のもとに届けられた。昌幸は東軍、西軍のどちらが勝利しても家が存続することを選び、長子の信之とは敵と味方に分かれたと周囲に喧伝するべく領地に火を放った。信之は家康と交渉し、東軍が勝利した暁には昌幸の領地を継承すると言質を取った。真田家は9万5000石の大名へ。