昭和20年7月24日。滋賀県大津市上空で米国軍が撮影した写真。キノコ雲のようなものが見える。投下された模擬原爆による爆煙。爆撃されたのは東洋レーヨン滋賀工場。繊維工場だったが、当時、魚雷を製造していた。その被害について当時の工場がまとめた文書を今も現地で操業を続ける企業が保存していた。模擬原爆が投下された当時の様子をこう記していた。「7月24日午前7時47分。敵機1機B29、当工場、東南方より大津市に侵入し、兵器部品倉庫南側プラットホームに投弾。寄宿舎4棟、倉庫、売店などより火災発生せるも8時30分ごろ鎮火せり」。死者は16名、海軍生産協力隊2名などその内訳も記されていた。この資料の存在を明らかにした立命館大学の鈴木裕貴研究員。当時の日本では被害をつぶさに記録した文書は少なく驚いた。被害の実態は当時工場で働いていた人たちでさえ詳しく知らされていなかった。学徒動員され工場で働いていた杉江周作さん。空襲を知って近くの山に避難し模擬原爆が投下されるのを見ていた。工場に戻ると壊れた建物のがれきが散乱していた。ただ、工場側から詳しい被害の説明はなかった。今回確認された資料では被害を受けた建物も工場事務所140坪全壊とか、兵器部品倉庫100坪全壊など、具体的に記録されていた。およそ20棟の建物に被害が及んだと見られ、こうした被害を魚雷を発注していた海軍や地元の警察署に報告していた。さらに爆撃のあと工場に当時の滋賀県知事や大津市長などが続々と見舞いに訪れていたことも記録されていた。鈴木さんは当時からこの爆撃への関心が高かったことがうかがえ、軍需工場がいかに重要視されていたか読み取ることができると考えている。
今も市民に詳しく知られていない模擬原爆の被害。鈴木さんは爆撃から79年となった先月、これまでに分かったことなどを伝えるシンポジウムを開いた。招いたのは工場で働いていた姉を亡くした男性。立ち入り禁止だった工場に数か月後に入ったとき、すでに姉の遺体はなく、姉の財布だけがあった。この爆撃で亡くなった16人の名前は今もすべては分かっていない。鈴木さんは資料を見つけ、読み解いていくことが今を生きる者の使命だと考えている。実は米国軍は広島、長崎に原爆が投下されたあとの終戦の直前8月14日まで模擬原爆を投下していた。再びこうした悲劇を繰り返さないためにも当時の実態を伝えることが重要と取材をして感じた。
今も市民に詳しく知られていない模擬原爆の被害。鈴木さんは爆撃から79年となった先月、これまでに分かったことなどを伝えるシンポジウムを開いた。招いたのは工場で働いていた姉を亡くした男性。立ち入り禁止だった工場に数か月後に入ったとき、すでに姉の遺体はなく、姉の財布だけがあった。この爆撃で亡くなった16人の名前は今もすべては分かっていない。鈴木さんは資料を見つけ、読み解いていくことが今を生きる者の使命だと考えている。実は米国軍は広島、長崎に原爆が投下されたあとの終戦の直前8月14日まで模擬原爆を投下していた。再びこうした悲劇を繰り返さないためにも当時の実態を伝えることが重要と取材をして感じた。