ブライダルファションデザイナー桂由美は去年4月に94歳で亡くなった。レンタルドレスのデザイナー森永幸徳、ヘッドアクセサリーのデザイナーでブランドの企画立案もする藤原綾子、飯野恵子は販売ドレスやコレクションの一点もののドレスを担当した。別のブランドでドレスを作っていたがパリで見たドレスに憧れ、中途で入社した。桂由美は20年以上3人のデザイナーとともに、ドレスを手掛けてきた。愛犬の名前は尊敬するココ・シャネルから取り、男性が着るはずだったスーツを女性のスタイルに取り入れたデザイナーである。母親が経営する洋裁学校で教えながら、パリ留学中にウェディングドレスに出会い1965年東京・赤坂に日本初のブライダル専門店をオープンした。当時婚礼衣装は和装が97%でドレスはわずか3%となっており着物業界からの反発やキャンセルが相次いだ。全てが揃うブライダルハウスを建てたのは10年後のことで、OL1か月分の給料で買えるドレスの日本初のブライダルコレクションを仕掛けドレスを普及するため無休で働いた。時代にあわせてデザインを進化させ、60年代はシンプルで生地の幅が狭く70年代以降はシルクの素材を増やしていった。シルエットは高度経済成長期から大きく鮮やかとなった。80年代は裾の長いデザインに多くの女性が魅せられた。その名を世界に馳せたのは81年の「ユミライン」である。花嫁の声に耳を傾けるため、月に1度は店頭に立ち続けてきた。大切にしたのは個性を生かすことで花嫁の要望には決してノーは言わなかった。何よりも仕事が優先のため、住まいは店に歩いて通える場所を選んでいた。当時tとしては晩婚の42歳で、大蔵省の元官僚と結婚した。デザイナーであり実業家のため、忙しい日々でもアンテナを張り小さな記事でも見逃さなかった。ドレスのデザインや制作、事業のアイデアに落とし込むためである。
2000年代に入ると今度は、和装離れを食い止めようと和に洋のトレンドを取り入れて改革した。日本のものづくりや伝統美を発信するため、越前和紙といった新素材に挑み伝統と革新で世界を驚かせた。ショーで披露する新作をチェックするため、アトリエに向かった。その底知れぬ情熱は時に後継者たちを困惑させていた。
2000年代に入ると今度は、和装離れを食い止めようと和に洋のトレンドを取り入れて改革した。日本のものづくりや伝統美を発信するため、越前和紙といった新素材に挑み伝統と革新で世界を驚かせた。ショーで披露する新作をチェックするため、アトリエに向かった。その底知れぬ情熱は時に後継者たちを困惑させていた。