タモリらは大仏殿の東側へ。この場所には現在の東大寺に残る最古のお堂・法華堂がある。東大寺ができる前、この地はお坊さんたちが修行をするのに適した場所だった。この辺り一帯には山房と呼ばれる小さな寺院が点在していて、法華堂は山房の一つだった。法華堂が造られたきっかけは聖武天皇と光明皇后の子どもが1歳で亡くなってしまったこと。その皇子の菩提を弔うために法華堂が建てられた。それが後に、東大寺というお寺、すべての者を救うという大仏の存在に繋がっていくという。
タモリらは法華堂の隣にある二月堂へ。二月堂は旧暦の2月に法要が行われてきたことからそう名付けられた。このお堂の歴史も古く、大仏が誕生する頃にはあったと考えられている。二月堂では修二会という法要が毎年3月1日から14日に行われている。この法要は、十一面観世音菩薩に全ての生き物が犯している罪を僧侶が懺悔し、国家安泰・五穀豊穣など幸せを祈るもの。奈良時代から一度も途切れることなく1275回も続いている。
タモリらは大仏殿に戻った。聖武天皇はもともと紫香楽宮(滋賀県)に大仏を造ろうと考えていた。聖武天皇が即位してから、飢饉や大地震、天然痘の大流行など、災いが続いていた。聖武天皇は「責めは予一人に在り」と自分に責任があると考えていた。そこで、聖武天皇は仏教に帰依し大仏を造ろうとした。紫香楽宮に大仏を造ろうとしたが、またも大地震に見舞われ、聖武天皇がいる紫香楽宮もかなりの被害を受けた。この出来事により、聖武天皇は昔から縁のあるこの場所に大仏を造ろうと考えるようになったのではと考えられている。しかし、この地に大仏殿を構えるのは容易ではなく、計4か所の基盤が強固な尾根を削り取らなくてはならなかった。この大仏を造る事業は誰でも参加することが可能で、東大寺に残っている記録によると、のべ260万人が作業に関わったとされている。タモリらは大仏を造った人たちが休んだとされる大湯屋を訪れた。鎌倉時代に造られた蒸し風呂が今も残っている。
タモリらは大仏殿の北側へ。僧侶たちが学ぶ場所・講堂の跡が見られる。講堂を取り囲むように、僧侶が寝泊まりする場所・僧坊があった。多い時には数百人の学僧が暮らし学んでいた。その中には空海や最澄といった人物も。僧侶が守るべきルール・戒律を授ける儀式を授戒といい、授戒を受けなければ正式な僧侶と認められなかった。大仏が造られた当初、日本では正式な授戒ができなかった。理由は正式な戒律を授ける資格を持つ師僧が足りていなかったため。困った聖武天皇は中国から師僧を招いた。それが鑑真和上。鑑真和上が東大寺に来たのは大仏の開眼供養会から2年後のことだった。
タモリらは唐招提寺を訪れた。鑑真和上は約5年間、東大寺で戒律を授けた後に引退。唐招提寺を建立した。唐招提寺は平城京の中の一等地に建てられた。もともと新田部親王が住んでいた場所で、奈良時代に建てたられた蔵が今も残っている。唐招提寺の開山堂には鑑真和上坐像が鎮座している。6月6日が鑑真和上の命日。その前後の3日間のみ拝むことができる。鑑真和上が唐招提寺に来たのには余生は戒律を広く説きたいという考えがあってのことだったと考えられている。
タモリらは大仏殿に戻った。年に2回、夜になると特別な大仏の姿を見ることができる。日中に近くで見る姿とは違う。
タモリらは法華堂の隣にある二月堂へ。二月堂は旧暦の2月に法要が行われてきたことからそう名付けられた。このお堂の歴史も古く、大仏が誕生する頃にはあったと考えられている。二月堂では修二会という法要が毎年3月1日から14日に行われている。この法要は、十一面観世音菩薩に全ての生き物が犯している罪を僧侶が懺悔し、国家安泰・五穀豊穣など幸せを祈るもの。奈良時代から一度も途切れることなく1275回も続いている。
タモリらは大仏殿に戻った。聖武天皇はもともと紫香楽宮(滋賀県)に大仏を造ろうと考えていた。聖武天皇が即位してから、飢饉や大地震、天然痘の大流行など、災いが続いていた。聖武天皇は「責めは予一人に在り」と自分に責任があると考えていた。そこで、聖武天皇は仏教に帰依し大仏を造ろうとした。紫香楽宮に大仏を造ろうとしたが、またも大地震に見舞われ、聖武天皇がいる紫香楽宮もかなりの被害を受けた。この出来事により、聖武天皇は昔から縁のあるこの場所に大仏を造ろうと考えるようになったのではと考えられている。しかし、この地に大仏殿を構えるのは容易ではなく、計4か所の基盤が強固な尾根を削り取らなくてはならなかった。この大仏を造る事業は誰でも参加することが可能で、東大寺に残っている記録によると、のべ260万人が作業に関わったとされている。タモリらは大仏を造った人たちが休んだとされる大湯屋を訪れた。鎌倉時代に造られた蒸し風呂が今も残っている。
タモリらは大仏殿の北側へ。僧侶たちが学ぶ場所・講堂の跡が見られる。講堂を取り囲むように、僧侶が寝泊まりする場所・僧坊があった。多い時には数百人の学僧が暮らし学んでいた。その中には空海や最澄といった人物も。僧侶が守るべきルール・戒律を授ける儀式を授戒といい、授戒を受けなければ正式な僧侶と認められなかった。大仏が造られた当初、日本では正式な授戒ができなかった。理由は正式な戒律を授ける資格を持つ師僧が足りていなかったため。困った聖武天皇は中国から師僧を招いた。それが鑑真和上。鑑真和上が東大寺に来たのは大仏の開眼供養会から2年後のことだった。
タモリらは唐招提寺を訪れた。鑑真和上は約5年間、東大寺で戒律を授けた後に引退。唐招提寺を建立した。唐招提寺は平城京の中の一等地に建てられた。もともと新田部親王が住んでいた場所で、奈良時代に建てたられた蔵が今も残っている。唐招提寺の開山堂には鑑真和上坐像が鎮座している。6月6日が鑑真和上の命日。その前後の3日間のみ拝むことができる。鑑真和上が唐招提寺に来たのには余生は戒律を広く説きたいという考えがあってのことだったと考えられている。
タモリらは大仏殿に戻った。年に2回、夜になると特別な大仏の姿を見ることができる。日中に近くで見る姿とは違う。
