今月15日で終戦80年を迎えた日本。終戦当時の内閣総理大臣が鈴木貫太郎。1945年4月、77歳で総理大臣に就任。在任期間は130日あまりでありながら日本を終戦に導いた。都内に暮らす孫娘の鈴木道子さん。道子さんが4歳の時に二・二六事件という軍事クーデターが起こる。当時鈴木貫太郎も軍人に襲われた。鈴木は重傷を負いながらも一命をとりとめた。事件後は侍従長を退任し、その後昭和天皇から総理大臣になってほしいと説得される。1945年に総理大臣に就任しつつも、家族の前ではバドリオ首相になると漏らしていた。道子さんが東京に行くと祖父に話したとき「若い人は安全な場所で暮らしなさい。次の時代を築いていってもらわないといけない。」と諭され、祖父は戦争をやめようとしているとわかったと話した。
1945年8月14日、昭和天皇隣接のもと開かれた会議。この会議でポツダム宣言が受諾された。8月15日の早朝、徹底抗戦を訴える軍人により自宅が焼き討ちになったが、鈴木は間一髪で逃げ出すことができた。鈴木内閣は終戦の2日後に総辞職、戦後は新憲法策定に携わった。鈴木は千葉県野田市で過ごし、80歳で亡くなった。道子さんはラジオ番組でプロデューサーを務めたあと、アメリカに渡り帰国後音楽評論家として活躍。道子さんは鈴木貫太郎が意識不明の時にぱっと起きたときに話した「永遠の平和、永遠の平和」と話したことが印象的だったと話す。道子さんは世界の戦争情勢を祖父が見たときに呆れてしまうのではと話した。さらに道子さんは戦争に正義はなく、自国だけ良ければ戦争に終わりはないと話した。
1945年8月14日、昭和天皇隣接のもと開かれた会議。この会議でポツダム宣言が受諾された。8月15日の早朝、徹底抗戦を訴える軍人により自宅が焼き討ちになったが、鈴木は間一髪で逃げ出すことができた。鈴木内閣は終戦の2日後に総辞職、戦後は新憲法策定に携わった。鈴木は千葉県野田市で過ごし、80歳で亡くなった。道子さんはラジオ番組でプロデューサーを務めたあと、アメリカに渡り帰国後音楽評論家として活躍。道子さんは鈴木貫太郎が意識不明の時にぱっと起きたときに話した「永遠の平和、永遠の平和」と話したことが印象的だったと話す。道子さんは世界の戦争情勢を祖父が見たときに呆れてしまうのではと話した。さらに道子さんは戦争に正義はなく、自国だけ良ければ戦争に終わりはないと話した。
住所: 千葉県野田市関宿町1273