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「雨のブルース」 のテレビ露出情報

青森出身の歌手である淡谷のり子は青森市の中心で生まれたという。そこで最初は学芸員の案内で淡谷のり子の生家や通った学校を訪れたり、生い立ちが紹介された。ただ関東大震災などで収入が行き詰まり、妹が栄養失調で失明の危機になったことから、治療費と学費のためにヌードモデルになったという。1925年に淡谷のり子は学校を首席で卒業し流行歌手の道へと進んだ。
1937年に「別れのブルース」が発表された。発売当初は売れなかったが、日中戦争の戦地から流行するようになったという。ただ戦争をしていたということもあり、歌や派手な衣装については色々なところで反発があったという。冷静を装ってきた淡谷のり子だが、特攻隊員の前で歌ったときは歌えなくなった場面もあったという。
淡谷のり子と親交のあった美川憲一は淡谷のり子について「内面はとってもかわいい人でした」と語った。歌のために生きてきた淡谷のり子は家族を大事にしてきており、友達の娘を引き取って育てていたという。ただ淡谷のり子はそのことを外には言わなかったという。美川憲一は「淡々と歌うその強さの中に切なさがでてきていた」と淡谷のり子の歌について語った。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年8月11日放送 13:55 - 15:20 テレビ朝日
徹子の部屋「戦争」を忘れない徹子の部屋「戦争」を忘れない
淡谷のり子は1930年にデビューし流行歌手となった。「雨のブルース」は100万枚を超える大ヒットとなった。戦時中は、全国の基地で慰問活動を行っていた。淡谷のり子が慰問活動に行った時、平均年齢16歳の特攻兵たちがいたという。歌ってる間に突撃命令が出て、特攻兵たちは飛び立っていったという。淡谷のり子は「私の方を見てニコニコ笑って敬礼するんです。もう泣けて歌えなか[…続きを読む]

2024年2月18日放送 11:20 - 11:54 NHK総合
どーも、NHKもっとNHK
現在放送中の連続テレビ小説「ブギウギ」の茨田りつ子のモデルになったのが青森市出身の歌手・淡谷のり子さんだ。ブルースの女王と呼ばれ、85歳まで歌手活動を続けた淡谷さんは多くのテレビ番組に出演し、歯に衣着せぬ物言いは彼女のトレードマークで、美川さんは毒吐くことでみんなが喜ぶことを分かっていたと語った。裕福な家庭に生まれた淡谷さんの女学校時代は革靴に袴と当時先端の[…続きを読む]

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