2024年8月11日放送 13:55 - 15:20 テレビ朝日

徹子の部屋「戦争」を忘れない
〜櫻井翔が聞く黒柳徹子の記憶〜

出演者
黒柳徹子 櫻井翔 
徹子の部屋「戦争」を忘れない
コーナーオープニング

黒柳徹子がテレビの使命の1つとして聞き続けてきた戦争体験社の記憶。今年は、戦争を知らない世代の櫻井翔が、自らの考えで徹子の部屋を訪れた。きっかけとなったのは櫻井翔が黒柳徹子に「徹子さんが知る戦争の記憶を記録したい」と手紙を送ったことだった。

櫻井翔が聞く黒柳徹子の記憶

黒柳徹子は最初、手紙をもらったときは食事の場での話しだと思い、楽しみにしながら行ってみたら、カメラが何台かあったという。終戦から間もなく80年、櫻井翔は、どんどん過去の話しになり、大河ドラマの時代になってしまうんじゃないかという危機感があった。若い人に知ってもらいたい、怖いと思ってもらいたいと記録を残すことにしたという。池部良は戦争が終わった時、太平洋の真ん中で泳いでいたという。池部良が戦争体験を徹子の部屋で話したことがきっかけで、黒柳徹子はこういう話は残さないといけないと思い、記録に残すことにした。その時のVTRを紹介した。

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池部良淡谷のり子

淡谷のり子は1930年にデビューし流行歌手となった。「雨のブルース」は100万枚を超える大ヒットとなった。戦時中は、全国の基地で慰問活動を行っていた。淡谷のり子が慰問活動に行った時、平均年齢16歳の特攻兵たちがいたという。歌ってる間に突撃命令が出て、特攻兵たちは飛び立っていったという。淡谷のり子は「私の方を見てニコニコ笑って敬礼するんです。もう泣けて歌えなかった」などと話した。「世界の国からこんにちは」で知られる三波春夫は20歳のときに軍に招集され、最前線で戦っていた。三波春夫は「終戦近くの8月14日、何の音も聞こえない戦場。ソ連兵が来たので、手榴弾を投げた。最後までソ連兵は母親の名前を呼び続けていた。顔も名前も知らない人たちと戦うんだから、戦争なんて実に愚かなものだと思った」などと話した。

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三波春夫世界の国からこんにちは日本万国博覧会淡谷のり子雨のブルース

戦後、歌手の道を歩むことになった三波春夫。そのきっかけとなったのがシベリアでの抑留生活だった。抑留生活では約6万人が亡くなった。娘・美夕紀が三波春夫がどのような抑留生活をしたのか語ってくれた。アパートの窓の修理に行った時、カチューシャの歌というロシア歌を歌っていたら、現地の人たちから拍手された。歌には力があることを知り抑留生活を終えると1957年に歌手デビューした。大阪万博のテーマソング「世界の国からこんにちは」。未来は子どもたちが作っていくものだからと、子どもたちと一緒に歌ったという。戦争で命を落として帰れなかった仲間や抑留生活を頑張ったのに帰れなかった仲間の変わりに、その人達の分まで頑張らないといけない、絶対に万博を成功させないといけないという気持ちで、一生懸命歌ったという。戦後間もない娯楽について黒柳は「戦後すぐにはラジオから歌が流れてきた。リンゴの唄がしょっちゅう流れてきた。あれを聞くと戦後を思い出す」などと話した。

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カチューシャの歌チャンチキおけさリンゴの唄三波春夫世界の国からこんにちは並木路子吉田勇日本万国博覧会食糧の分配
櫻井翔×戦争を知らない世代の”語り手”

櫻井翔は香川・さぬき市を訪れた。千田豊実さんはシベリア抑留を体験した祖父・川田一一さんと共に抑留の記憶を絵で語り継いできた。川田一一さんは1945年、軍に招集された。旧満州に進行してきたソ連軍によって収容所送りになった。帰国後はその記憶に重く蓋をしていた。しかし70歳を過ぎた頃から自らの記憶を絵として残すことを決意した。15年ほど立ったころ体調が悪化、千田豊実さんに「抑留について一緒に描いてみないか?」と伝えた。千田さんは自分が体験してないから無理だってずっと言っていたが、説得され描き始めたという。悩みながら描いたという「生き続けた鼓動」という作品を紹介した。川田一一さんは30枚の絵を書き残した。一一さんが使っていた画材は今も大切に保管してある。千田豊実さんは「生きて帰ってきたから、後世に残さないと。今もシベリアに眠る仲間がいるんだということで風化させてはいけないという祖父の強い思いはあった。苦しみながら、泣きながら描いてる様子を見るとそこまで苦しんで絵にする必要はあるのかなって家族としては思った」などと話した。千田は一一さんが亡くなって3年後、6mにもなる大作「シベリアで眠る人々」を描きあげた。

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さぬき市(香川)シベリアで眠る人々仲間たち一ダモイ供養1奪われた青春川田一一生き続けた鼓動異国の丘一月照黒の恐怖一ノルマ2
櫻井翔が聞く黒柳徹子の記憶

黒柳徹子の父・守綱さんも抑留生活を送っていた。詳しいことはあまり話さなかったという。帰国した時の写真を紹介した。

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黒柳守綱

林家正蔵、三平の母でエッセイストとして活躍する海老名香葉子さん。1933年、東京・墨田区に生まれ、家族8人で暮らしていた。太平洋戦争が始まると、当時小学生だった、海老名さんは1人で沼津に疎開した。1945年3月10日、空襲で家族を亡くし戦争孤児となった。疎開先に送られてきた家族の手紙を紹介した。黒柳徹子は「東京大空襲の夜、表に出て、本を広げたら全部字が読めた、それくらい明るかった。空が真っ赤だった。どこかで音がしたら、目、耳、鼻、口を塞いで下を向いてなさいって学校で教わった」などと話した。

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墨田区(東京)太平洋戦争林家三平[2代目]林家正蔵[9代目]沼津(静岡)海老名香葉子

黒柳徹子は疎開した青森でも空襲を体験した。アメリカ軍が撒いた空襲予告のビラを紹介した。ビラには「アメリカの敵はあなた方ではありません。軍部こそ敵です。必ず4つは爆撃します。避難してください」と書かれていた。黒柳徹子はこのビラを見たことがなかったという。市民の手元に来る前に、回収されていたという。

櫻井翔×戦争を知らない世代の”語り手”

櫻井翔は戦争を語り継ぐ同世代の方を訪ね都内のマンションの一室に向かった。俳優・寿大聡さんは「対馬丸」のドキュメンタリー映画を製作している。対馬丸は1944年8月22日、夜、沖縄から九州へと向かっていた。アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。犠牲者は1400人以上にのぼった。その多くが学童疎開で親元を離れた子どもたちだった。寿大聡さんの祖父・中島高男さんは対馬丸の元乗組員で数少ない生存者だった。14歳の時に祖父から対馬丸の話を聞いたという。映画を作ったのはその記憶を後世に残さないといけないという思いからだった。寿大さんは生存者から証言を集め、亡き祖父が生前語っていた言葉も見つけた。さらに、実際に悲劇が起きた海にも足を運んだ。寿大さんは役者の道を目指し大学卒業後、仲代達矢率いる無名塾に入った。そこで仲代さんから「俳優とか何かを作って提示する人は、戦争というテーマに係ることは義務」と言われた。寿大さんは戦争を知らない世代に実感を与えたいと、子どもたちが犠牲となっているウクライナを取材した。そこで戦争の残酷さを目の当たりにしたという。寿大さんは「子どもたちが巻き込まれる戦争。実感を持たせて共有していかないとと思っている」などと話した。

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中島高男仲代達矢対馬丸対馬丸記念館満天の星無名塾
櫻井翔が聞く黒柳徹子の記憶

戦争中は情報が規制されていたため対馬丸のことは知られていなかった。戦争が終わってから次々と明るみになっていった。黒柳徹子は「始めは戦争にいった方たちがいらっしゃった。その次に、近くにそういう人がいたとか自分が空襲にあったとか、今はもうほとんどいない。子どもだった私がこの年で生きてる最後の人間になってしまった。それでも伝え続けていかないといけない」などと話した。三代目江戸家猫八さんは戦前、俳優修業をしていたが20歳の時に陸軍に入隊。1945年8月6日を広島で迎えた。猫八さんは「その日は晴天だった。太陽よりももっと明るかった。外に出た時に爆風で吹き飛ばされた。人は全部真っ黒でした。地獄ですよ。僕らは兵隊だったから街に片付けにいった。水を下さいって言われるけど、水をあげると亡くなっちゃう。それでも水をあげると、おいしかったですよってそのまま息を引き取った。」などと話した。

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対馬丸江戸家猫八[3代目]

長崎出身の美輪明宏。「ふるさとの空の下で」は自身の長崎での原爆体験をもとに製作。1945年8月9日、午前11時2分、美輪は国民学校の4年生だった。宿題の絵を描いて、その出来具合を確かめようと一歩下がった瞬間にピカッと光ったという。黒柳徹子は「戦争だから仕方ないと言われたらそれまでだけど。これだけのことが起こると分かってて落としたんだから、ひどいなって思う」などと話した。

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ふるさとの空の下でヨイトマケの唄

櫻井翔は「42の歳になるけど、自分にとって親の世代だとあまりにも生々しすぎた、あまりにも苦しすぎた事を孫の世代である私達が、下の世代に繋いでいく役割があるとすれば、きょうお届けできたことに何か大きな意義があるといいなと思った」などと話した。黒柳徹子は「私が俳優になるとき、テレビは1番大きいメディアになる。テレビによって永遠の平和を売ることができればいいと言われた。こういう番組をやることも、その時の約束の1つだと思う」などと話した。

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ふるさとの空の下でヨイトマケの唄

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