敗戦が濃厚となると大人たちは守るべき子どもたちをも武器に仕立て上げようとした。戦況が悪化していた1944年に制作された記録映画「戦ふ少国民」では、軍服を着用した校長が生徒たちに飛行訓練や手旗信号などと戦争遂行のために鍛錬する子どもたちの様子が描かれている。731部隊が満州の地で細菌培養に従事していた頃、沖縄では少年兵たちが激しい地上戦を戦っていた。少年たちだけで構成された護郷隊は14歳以上の子どもたち1000人が召集され、与えられた作戦のメインは奇襲目的のゲリラ戦であった。少年たちが戦ったとされる蛸壺壕は数多く確認されている。護郷隊の中には怪我で戦えなくなった少年が上官に殺されたこともあるという。その一人が高江洲義英であり、弟の義一は兄の本当の死因を知ったのは終戦から70年後であった。1945年、沖縄では組織的な戦争は終幕し、大人たちは武器を置いたが、少年兵たちはその後もゲリラ戦を繰り広げ続けた。16歳の頃に護郷隊に入隊した瑞慶山は、迫撃砲で仲間たちが手足が吹き飛ばされるのを見てきたなどと語った。2024年6月23日、慰霊の日に沖縄・恩納村では護郷隊の慰霊碑がある公園で子どもたちが清掃活動を行い、瑞慶山も慰霊碑に手を合わせていた。