太平洋戦争末期、鳴子温泉では延べ6500人もの集団疎開を受け入れた。当時疎開していた富士夫さんの学童日誌には、生活の様子や親が会いに来てくれた日の喜びなどが記されていた。ひもじくて大変な時代だったが鳴子の人たちには良くしてもらったという。旅館の女将だった母とともに子どもたちの世話をしていた元子さんは、食糧確保に奔走する日々だったと話した。子どもたちが抱える寂しさも感じていたという。全員が宿を離れたのは終戦翌年の春だった。
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