今年は戦後80年、「いまを、戦前にさせない」をテーマに今日は小松から出撃し小松で終戦を迎えた特攻隊員たちが見た、戦争の記憶をたどる。石川県小松市串町、ここには戦後代々受け継がれる踊りがある。踊りが誕生した背景には、この町で暮らし明日をも知れぬ若者たちの存在があった。航空自衛隊小松基地に手がかりが残っている、戦闘機を空襲から守るための掩体壕。海軍の飛行場として整備された小松飛行場、80年前ここには体当たり作戦を決行する特攻隊「神雷部隊」が集結していた。日本軍が開発した人間爆弾兵器「桜花」、1.2トンの爆弾に翼と操縦席がついている。攻撃機につり下げ戦地へ運ばれ、敵艦近くで隊員が乗り込み切り離されると隊員もろとも敵艦に体当たりする。生きては帰れない作戦。終戦の年、九州沖に初出撃した神雷部隊を米軍カメラが捉えた映像が残っていた。この日出撃した攻撃機は全滅。作戦は10回決行され、800人以上が帰らぬ人となった。
当時を知る人がほとんどいなくなる中、5年前神雷部隊の元隊員から証言を得ていた。金沢市出身の黒川隆さん。取材当時、95歳だった。人間爆弾「桜花」を敵艦上空まで運ぶ、攻撃機の通信員だったという。”飛行機に乗ってみたい”そんな夢を抱き17歳の時に、海軍兵学校に入学。卒業後は実戦部隊として台湾などへの爆撃にも参加し、終戦間際に神雷部隊に入った黒川さん。1945年5月黒川さんは、攻撃機の通信員として出撃した。神雷部隊は鹿児島県の鹿屋基地を拠点としていた。空襲が激しくなると一部の部隊は後方基地の小松に移動、出撃命令が出ると小松から鹿屋を経由して戦地へ向かった。そして、1945年8月15日終戦。飛行兵である証拠は一切焼却するよう通達があり、隊員たちは愕然とした思いを抱えながら故郷へと帰っていったという。神雷部隊が小松にいたのは終戦の年の僅かな時間だったが、基地周辺の寺院や民家、小学校などで寝泊まりし地元の人たちと心を通わせていた。
山下相子さん、取材当時は91歳。母親が小学校に住み込みで働いていたため、校舎で過ごす隊員の姿を記憶しているという。出撃するため学校から基地へと向かう隊員たちを、涙を流しながら見送ったという山下さん。他に見送る人もなく1人で送り続けていたある日、若い隊員に話しかけられたという。ゼッケンをつけてほしいと頼まれ、泣きながら飛行服に縫い付けた日の丸。出撃の日、多くの隊員がお寺の上空を戦闘機で何度も旋回していった。それが”さよなら”の合図だったという。名前も知らないその隊員は、二度と帰って来ることはなかった。死と隣合わせの神雷部隊、”いつでも死ねるように”と出撃前に写真を撮る人、地域の住民たちと束の間のひとときを過ごす人もいた。
井須美津子さん、取材当時96歳。終戦の年の演芸会に特攻隊員が飛び入り参加してきたことを覚えているという。その時、竹澤と名乗る隊員が地元・栃木県の踊りをアレンジして作った踊りがある。終戦から80年、地元の小学生受け継がれている、串町音頭。明るい曲調に合わせて歌われているのは、”戦時中の町の風景”。以前は地域の人が踊りを教えていたが、高齢化で教えられなくなり去年からは子どもたち同士で教え受け継いでいる。踊りは秋の文化祭で3年生が披露するのが恒例となっている。この日は、地域の人から音頭の歴史などを学ぶ授業。子どもたちは自分たちが暮らす町と、戦争のつながりを知った。
当時を知る人がほとんどいなくなる中、5年前神雷部隊の元隊員から証言を得ていた。金沢市出身の黒川隆さん。取材当時、95歳だった。人間爆弾「桜花」を敵艦上空まで運ぶ、攻撃機の通信員だったという。”飛行機に乗ってみたい”そんな夢を抱き17歳の時に、海軍兵学校に入学。卒業後は実戦部隊として台湾などへの爆撃にも参加し、終戦間際に神雷部隊に入った黒川さん。1945年5月黒川さんは、攻撃機の通信員として出撃した。神雷部隊は鹿児島県の鹿屋基地を拠点としていた。空襲が激しくなると一部の部隊は後方基地の小松に移動、出撃命令が出ると小松から鹿屋を経由して戦地へ向かった。そして、1945年8月15日終戦。飛行兵である証拠は一切焼却するよう通達があり、隊員たちは愕然とした思いを抱えながら故郷へと帰っていったという。神雷部隊が小松にいたのは終戦の年の僅かな時間だったが、基地周辺の寺院や民家、小学校などで寝泊まりし地元の人たちと心を通わせていた。
山下相子さん、取材当時は91歳。母親が小学校に住み込みで働いていたため、校舎で過ごす隊員の姿を記憶しているという。出撃するため学校から基地へと向かう隊員たちを、涙を流しながら見送ったという山下さん。他に見送る人もなく1人で送り続けていたある日、若い隊員に話しかけられたという。ゼッケンをつけてほしいと頼まれ、泣きながら飛行服に縫い付けた日の丸。出撃の日、多くの隊員がお寺の上空を戦闘機で何度も旋回していった。それが”さよなら”の合図だったという。名前も知らないその隊員は、二度と帰って来ることはなかった。死と隣合わせの神雷部隊、”いつでも死ねるように”と出撃前に写真を撮る人、地域の住民たちと束の間のひとときを過ごす人もいた。
井須美津子さん、取材当時96歳。終戦の年の演芸会に特攻隊員が飛び入り参加してきたことを覚えているという。その時、竹澤と名乗る隊員が地元・栃木県の踊りをアレンジして作った踊りがある。終戦から80年、地元の小学生受け継がれている、串町音頭。明るい曲調に合わせて歌われているのは、”戦時中の町の風景”。以前は地域の人が踊りを教えていたが、高齢化で教えられなくなり去年からは子どもたち同士で教え受け継いでいる。踊りは秋の文化祭で3年生が披露するのが恒例となっている。この日は、地域の人から音頭の歴史などを学ぶ授業。子どもたちは自分たちが暮らす町と、戦争のつながりを知った。
住所: 鹿児島県鹿屋市西原3-11-2
URL: http://www.mod.go.jp/msdf/kanoya/
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