戦後から10年、関西の経済は復興の遅れにあえいでいた。 重工業への転換を試みていたが、致命的なアキレス腱を抱えてた。それが電力の不足だった。関西電力には企業などから一刻も早く新たな電源を確保してほしいという声が相次いでいた。関西電力は大手建設5社を呼び、水力発電用のダム 建設を持ちかけた。ダムの建設が7年を越えれば大阪が停電になる日が続くと窮状を訴えた。ダムが建設できる場所は黒部峡谷しかなかった。黒部ダムの本体工事を任されたのが47歳、間組の中村精だった。昭和31年5月、中村は調査隊を組み黒部峡谷に乗り込んだ。3日かけて目的地に着いた。電力開発は1万キロワットを生むごとに死者が1人出ると言われていた。黒部ダムは高さ186m、建設には絵メントや鋼材など60万トン。甲子園6杯分もの資材が必要だった。黒部に入りダムを創るのは間組。資材の輸送路は熊谷組が長野川から5kmのトンネルを掘ることが決まった。しかし開通には1年かかり、それを待っていたらダム本体の工事に間に合わなかったという。中村は、富士山から400人の剛力をかき集め、資材などを現場に運んでもらった。さらに、全国からブルドーザーの運転手など10人を引き抜いた。作戦はブルドーザーで標高2700mまで登り、ソリに資材を乗せ一気に黒部に滑り降りるというもだった。9月、岩井たちは5台のブルドーザーで立山に登り始めた。12月までに道を切り開くのが目標だった。一方、熊谷組が長野川から掘っていた大町トンネルの工事が遅れていた。中村は黒部側から迎え掘りをしないと間に合わないと考えていた。これから黒部に入れば冬になり雪に閉ざされ5ヶ月は出れない。中村は迎え掘りをする越冬隊を募った。志願したのは50人の男たち、そのほとんどが、各地の現場で中村から怒鳴られてきた若者たちだった。