TVでた蔵トップ>> キーワード

「B-29」 のテレビ露出情報

1941年12月8日の真珠湾攻撃によって幕を開けた太平洋戦争。若いアメリカ人たちは「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に軍に殺到したが、彼らの中で日本人について理解していた者はごく僅かで、日本語を理解できる者は50人程度しかいないとされていた。アメリカ政府は日本語を理解できる諜報機関を設立するため、全米から優秀な若者を招集する。その内には日本語を理解できる数少ないアメリカ人にして親日家のオーテス・ケーリや、コロンビア大学出身のドナルド・キーンがいた。
彼らはコロラド大学ボルダー校に設置された海軍日本語学校に通い、1年で日本語を習得することになった。旧字体やくずし字などの読解、リスニングなどを日系人から学び情報士官となった彼らは「ボルダー・ボーイズ」と呼ばれ、ニミッツ提督の指揮下で情報戦に従事する。1943年5月に行われたアッツ島への上陸作戦にはドナルド・キーンとオーテス・ケーリも同行。彼らは戦場から押収した日記や文書の解読を行い機密情報を手に入れるが、日記を読むことで同時に日本人が自分たちと変わらぬ存在であることに気付いた。戦争が激しくなるにつれ増えていく捕虜への尋問もボルダー・ボーイズの担当で、オーテス・ケーリは自責の念から死を願う日本人捕虜に「ここでは貴方を人間として扱う」と慰めたという。
1944年7月、アメリカ軍はサイパン島を制圧しテニアン島にも攻撃を行う。この攻撃に同行したのがテルファー・ムックで、彼は祖国に妻と子供を残していた。テニアン島には1万人以上の民間人が居住していたが、上陸してきたアメリカ軍と日本軍の戦闘に巻き込まれた彼らはジャングルの奥地へ逃げ込むことを余儀なくされる。逃げ場を無くした住民たちは集団自決に追い込まれ、生き残った子供たちも虚ろな表情を浮かべるばかりだった。彼らの姿を目にしたムックは学校を作ることを思い立ち、ムックはここで日本語による授業を行った。英語の勉強ではムックが自ら教鞭をとったという。
学校が始まるのとほぼ同時期、テニアン島には新型爆撃機のB-29が配備された。B-29の搭乗員たちは日本本土への無差別爆撃を繰り返す一方で任務後には子供たちと戯れていたという。1945年8月には原子爆弾を搭載した機体がここから飛び立ち、広島と長崎に惨事を巻き起こした。
日本が降伏すると、ボルダー・ボーイズたちは占領軍の一員として日本の地を踏むことになる。オーテス・ケーリは浮浪児が溢れ、餓死者が相次ぐ焼け野原の中で日本人から繰り返し話を聞いた。ケーリは高松宮宣仁親王の元を訪れ、日本人を励ますために昭和天皇は地方を巡航すべきと提案する。新憲法下で行われた地方巡航は熱狂的な歓迎で迎えられ、戦後復興に向けて多くの日本人を勇気づけたという。
佐世保に駐留したボルダー・ボーイズの1人、エドワード・サイデンステッカーは賢明に働く日本人の姿から「彼らは必ず世界に伍して恥ずかしくない国民になる」と直感する。GHQを辞して東京大学に入学したサイデンステッカーは日本文学の研究に打ち込み、小石川に居を構えて谷崎潤一郎や三島由紀夫といった作家と親交を深めていった。サイデンステッカーは川端康成の小説を中心に多くの日本文学を英訳し、1968年には川端が日本人初となるノーベル文学賞を受賞。川端はこの受賞に際して「半分は翻訳者のもの」としてサイデンステッカーに授賞式への同行を依頼し、感謝の気持ちを伝えたという。
テルファー・ムックの教え子たちの多くは終戦後に沖縄へ帰還し、中には教員として沖縄の子供たちを通じて戦後復興のために尽力した者もいる。ムックは1991年にテニアンスクールの同窓会に招待され、初めて訪れた日本でかつての校長や教え子たちと久々の再開を果たした。オーテス・ケーリはGHQを辞職した後には同志社大学の教授となり、多くの学生達を導いたという。そして、エドワード・サイデンステッカーも日本で死去し、葬儀にはドナルド・キーンも駆けつけた。ドナルド・キーンもまた2012年に日本に帰化し、日本人として息を引き取った。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年12月4日放送 5:00 - 6:00 NHK総合
NHKニュース おはよう日本(特集)
長崎県大村市で80年前の空襲で亡くなった人たちを追悼する式典が開かれた。南島原市に住む長門昭子は1944年9月、15歳だった時に学徒動員として航空廠に動員された。動員されてから約2か月後、航空廠の上空に米国軍のB29が飛来した。空襲警報が出てまもなく爆撃が始まったという。度重なる空襲で焼く300人が犠牲になり、長門と同じ故郷から来ていた学徒動員もなくなった。[…続きを読む]

2024年11月18日放送 1:28 - 2:28 TBS
ドキュメンタリー「解放区」巣鴨日記 ~あるBC級戦犯の生涯~
冬至堅太郎は32歳からの10年間をスガモプリズンで過ごした。冬至は戦犯として囚われ、その日々を日記に記していた。冬至堅太郎を父に持つ冬至克也は、父・堅太郎はどの様な気持ちで過ごしていたのか、そして真実を記しておきたいと日記を残したのだなどと告げた。大正時代に創業した文具店「冬至商店」の一人っ子として誕生した堅太郎は東京商科大学(現 一橋大学)に進学し、剣道部[…続きを読む]

2024年10月14日放送 19:30 - 20:55 NHK総合
ファミリーヒストリー石黒賢
三菱電機に就職した九一は長崎県長崎市で暮らしていた。昭和11年、石黒賢の父・修が誕生。幼少期の修は周囲の大人が手を焼く暴れん坊だった。昭和16年、太平洋戦争が開始。昭和20年8月9日、原子爆弾が投下された。九一がいた工場は爆風により窓ガラスが割れ、天井や壁の一部が崩落。九一は割れたガラスで傷だらけになりながら大急ぎで家族の元へ。一方、修は爆心地から約3kmの[…続きを読む]

2024年10月14日放送 0:55 - 1:50 日本テレビ
NNNドキュメント(NNNドキュメント)
日本に原爆を投下した米兵の息子にインタビュー。1940年に日本がドイツ・イタリアと同盟を締結し、アメリカは日本への石油輸出を禁止した。1941年に真珠湾攻撃が行われ、日本とアメリカは開戦した。東京大空襲では、約10万人が死亡した。1945年7月にポツダム宣言が発出されて日本に無条件降伏が勧告され、8月14日にポツダム宣言が受諾された。被爆者の芝間タヅさんにイ[…続きを読む]

2024年10月7日放送 3:45 - 4:30 TBS
TBS NEWS(ニュース)
飯塚市で仲間に囲まれ合唱の練習をしている小出和典さん96歳。79年前、同じ中学校の仲間と汗を流した場所は軍用機の工場だった。小出さんが働いていた「九州飛行機」。現在の南福岡駅周辺・福岡市博多区と春日市の一帯でさまざまな軍用機を製造していた。小出さんはジュラルミンの板を張り付けて「零式水上偵察機」という飛行機の胴体を作る作業を担当していた。小出さんは、ある時監[…続きを読む]

© 2009-2024 WireAction, Inc. All Rights Reserved.