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「B29」 のテレビ露出情報

80年前の昭和20年2月10日、群馬県太田市を襲った太田空襲の映像。軍用機工場などが爆撃され160人余りが亡くなった。実はこの日、アメリカ軍のB29と日本軍の戦闘機との間で激しい空中戦があったことはあまり知られていない。当時の戦闘を調べ、記録を残そうと取り組む男性を取材した。墜落したB29の写真を撮影した男性・相場定利さんの息子、邑楽町の相場一夫さんによると、定利さんは情報が統制されていた当時、憲兵などに隠れてひそかに撮影していた。墜落したB29は戦闘機を製造していた太田市の中島飛行機の工場などを爆撃するため飛来した。160人余りが亡くなるなど多くの被害が出た太田空襲。この日、B29に対し日本軍の戦闘機が反撃、激しい戦闘となっていた。この空中戦を目撃していた人がいる。邑楽町からおよそ20キロ東、栃木県野木町の大森博さんは12歳の当時、上空を飛来するB29と日本軍の戦闘機が交戦する様子を見ていた。相場さんは父親の残した写真が貴重なものだったと分かった8年ほど前からさらに詳しく調べ始めた。専門家や当時を知る人から証言を集め、記録として残そうと手記にまとめ始めた。最近、新たに分かったことがある。B29との戦闘で戦死した吉澤平吉中尉は若くて経験豊富な戦闘機乗りだったが、太田を襲ったB29との戦闘で死亡、24歳だった。当時の記録や専門家の話から吉澤中尉の戦闘機の墜落地点が太田市内であったことが分かった。その吉澤中尉の航空帽が都内のお寺に残されていたことも分かった吉澤中尉の親族が供養を依頼したことから保管されていると見られている。ただ、空襲から80年がたつ今、吉澤中尉や帽子の存在を知る人はほとんどいない。国を守ろうとして命を落とした吉澤中尉や戦闘の記録を風化させてはならない。相場さんは内容をまとめて書籍化して次の世代に伝えていきたいと考えている。地元の邑楽町では歴史を伝える貴重な資料として将来的には図書館などで閲覧できるようにしていきたいとしている。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年1月30日放送 10:25 - 13:55 TBS
ひるおびJNN NEWS
太平洋戦争末期に長崎県内で行われた空中戦で犠牲となった日米双方の軍人を慰霊し続ける人たちがいる。1944年中頃からB−29による本土への空襲が始まると、日本軍は戦闘機による体当たりの攻撃を仕掛けるようになり長崎県諫早市出の上空でも空中戦が行われた。日米友好追悼の会の犬尾博治名誉会長は、慰霊を続ける。荒川明継会長の父の荒川斗苗さんが、呼びかけたという。斗苗さん[…続きを読む]

2025年1月18日放送 5:40 - 5:50 NHK総合
NHK映像ファイル あの人に会いたい(NHK映像ファイル あの人に会いたい)
アーティストの田名網敬一さんは自身の作品を、編集的絵画と呼んでいる。田名網敬一さんの作品を紹介。田名網さんは、武蔵野美術大学在学中に日宣美展で特選を受賞し、アンディ・ウォーホルに影響を受け、アートアニメーションなど多彩な創作活動を展開した。田名網さんは、月刊プレイボーイの初代アートディレクターに就任した。2024年、国立新美術館で「田名網敬一 記憶の冒険」が[…続きを読む]

2025年1月12日放送 17:30 - 18:00 テレビ朝日
ANNスーパーJチャンネル(ニュース)
今年は太平洋戦争の終結から80年となる。戦争を体験した人が減る中、10万人が犠牲となった東京大空襲を後世に伝えるため焼け跡の保存作業が始まった。東京・墨田区にある賛育会病院の旧本館の紹介。1945年3月10日の未明、米軍のB29が落とした無数の焼い弾が賛育会病院のある下町一帯を焼け野原に変えた。この日の東京大空襲で焼失した建物はおよそ27万軒。およそ10万人[…続きを読む]

2025年1月10日放送 4:30 - 5:50 日本テレビ
Oha!4 NEWS LIVE(NNN 戦後80年プロジェクト「いまを、戦前にさせない」)
東京・足立区の舎人駅から10分ほど歩いた住宅街と畑がある一角に巨大なタイヤが埋まっている。米国のタイヤメーカー「GOOD YEAR」の文字が。米国軍の爆撃機B−29のタイヤ。B−29は日本各地を空襲した爆撃機。1945年3月10日未明の東京大空襲では300機以上のB−29が空爆し死者10万人、被害者100万人以上に及んだ。プロペラの直径は約4m。その一部が足[…続きを読む]

2025年1月7日放送 15:50 - 19:00 日本テレビ
news every.NNN戦後80年プロジェクト「いまを、戦前にさせない」
NNN戦後80年プロジェクト「いまを、戦前にさせない」。今回は、広島のお好み焼きに欠かせないオタフクソースを作った一家の物語。創業一家に生まれ育った佐々木尉文さんは今、最高顧問となり社長である息子を支えている。初めはしょうゆの卸売りと酒の小売りを営んでいたが、大正から昭和になると戦時色が強まる軍都広島では日持ちする商品が好まれるようになったという。尉文さんは[…続きを読む]

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