2007年、日本代表を辞退したあと会社勤めに専念していた馬場敏春。だが50歳を手前にリストラされた。そんなある日小学生の息子が紙に将来の夢「全日本4番」と書いた。息子の名は雄大、父を超えるバスケセンスを秘めていた。雄大が中学生になると敏春は息子のために猛特訓を行った。挑んだのはダンク。ダンクをマスターしプロになると目標を掲げた雄大。だが敏春は「バスケでは食えない」とくぎを刺した。息子の夢を応援したいが自分と同じ苦労はさせたくない、複雑な親心があった。一方佐古はバスケ冬の時代の中で懸命にプレーを続けた。アキレス腱断裂の大ケガを負ってもカムバックし子どもたちの憧れであり続けた。40歳で引退、オリンピック出場はかなわなかった。それでも「世界の扉をこじあける者たちが必ず現れる。それまで決して諦めない」と思った。佐古は日本代表の強化委員長に就任。次の世代にバトンを渡す新たな戦いが幕を開けた。後にNBAプレーヤーとなる香川の高校生、渡邊雄太を代表に選出。さらに力を入れたのが将来のエースと期待する大学生、比江島慎の育成だった。佐古賢一と東野智弥と西俊明は高校の仲間だった。東野は大学進学後試合に出れずパチンコ屋に入り浸っていた。そんな東野を闘病中の西が叱った。西の死後、東野はその背中を追うように生きた。まずケのコーチになるためアメリカに渡り最理論を学んだ。その後日本代表コーチに就任。取り組んだのは永遠の課題「身長の低さ」。東野はある国に活路をお求めた。それはアルゼンチン。アルゼンチンは成人男性の平均身長がほぼ日本と同じにも関わらず、オリンピックで金メダルを獲得していた。2011年、東野は単身、アルゼンチンに飛んだ。そこで学んだのは体格に勝る相手に果敢に体をぶつけ競り勝つ独特の戦い方だった。日本代表の技術委員長に就任した東野は、アルゼンチン式の育成プログラムを導入し、選手の体感を鍛え上げた。2016年、Bリーグも発足し、オリンピックの夢を受け継ぐ若い選手たちが1人、また1人と頭角を表していった。2023年のパリへの切符がかかるワールドグループが幕をあけた。