コネクト ヒロシマ・ノートをつなぐ
人間の奥底にある本当のこと。それを追求した小説は世界を魅了しノーベル文学賞を受賞した。大江健三郎さんは2023年3月88歳で亡くなった。生涯のテーマとした1つが「広島」だった。1965年に刊行した「ヒロシマ・ノート」は86万部を超えるベストセラー、9か国語に翻訳され世界で読まれ続けている。広島を訪れた大江さんは、ある人物と運命的な出会いをする。61年前、大江さんが訪れたのが広島赤十字・原爆病院。現在院長を務めている古川善也さんによると、大江さんが”広島的な人間”と記したのが、重藤文夫さん。広島赤十字・原爆病院の二代目の院長だった。原爆投下直後から被爆者の治療に奮闘し続けた医師。被爆者の治療の拠点となったこの病院、大江さんが訪れた1960年代、その治療は終わるどころか放射能による被害が現れ続けていた。重藤さんに会い、大江さんは未知の苦しみと戦い続ける広島の現実を知る。戦後、国や多くの日本人が直視しようとしなかったことを、「ヒロシマ・ノート」で全国に…世界に伝えた。
今も、被爆者の入院患者は60人以上いるという。大江さんが訪れた際は、白血病の患者がたくさんいる中、がん患者も増えてきている状況だった。さらにそのあとで、今度は多発性骨髄腫が増えてきた。広島では知られていた話しだったが、全国的には”終わった話”になってきていたのだろうと、現院長の古川さんは語る。古川さんの母は被爆者だったという、古川さんは広島赤十字・原爆病院の役割は、原爆被爆時の悲惨な状況を後世に伝えることだという。世界で最初の原爆被爆者治療・専門病院で、後世に絶対に残していかないといけないと話した。
広島を訪れた時、大江さん自身も人生の危機にあった。生まれたばかりの子どもに重い障害があり、命の危険がある手術を控え悩み、絶望していた。広島で出会った人々から絶望を乗り越える手がかりを得た、大江さん。子ども・光さんと共に生きていくことは、その後の大江さんの小説の大切なテーマになっていった。
広島出身の漫画家・こうの史代さん、原爆について描くは長く抵抗があったという。原爆の苦しみを直接知る当事者でなくても、当事者でないからこそやるべきことがある。こうのさんは、1人の女性を通して戦争の日々を描いた。
広島から遠く離れた、戦争の只中で「ヒロシマ・ノート」を読む人がいる。戦時下の日常を世界に伝えているウクライナの国民的作家、アンドレイ・クルコフ。「ヒロシマ・ノート」には読む人を目覚めさせる力があるという。