マツコの知らない世界 (マツコの知らない吉原遊郭の世界)
約2万坪の吉原遊郭には独自のシステムが存在した。1つめが堀と囲い。江戸城に習い、江戸水路を利用した堀で遊郭を囲んだ。この堀は生活用水が黒く濁っていたことからお歯黒ドブと呼ばれ、遊女たちが逃げられない残酷な工夫になってしまった。さらに遊女管理のため、遊郭の中に居住スペースも設けた。2つめは大門。吉原遊郭に入るための唯一の入口であり、警備の目を光らせた。さらに門へと続く五十間道をS字に曲げて内部を見えなくすることで、世間と色街を隔絶したとされているが、ワクワクさせる意図だったとする説もあるそう。現在も五十間道は名残があり、S字カーブを進むと吉原大門跡が現れる。3つめは吉原遊郭という名の町。甚右衛門は、遊女の居住スペースのほかに、医者や八百屋などを配置しひとつの町として成立させた。桜なべ中江では、遊郭時代から続く料理がたべられる。馬力をつけるという言葉の語源は、吉原に来た客が桜なべの馬肉を食べスタミナをつけたところにあるという。4つめは客と遊女の顔合わせ。富裕層の客は自ら妓楼に足を運ぶのは恥ずかしいと考えていたので、遊女との顔合わせの場である揚屋、のちの引手茶屋を作った。引手茶屋は妓楼の案内や予約をする店。主がすすめる高級遊女を指名し、宴を楽しみながら遊女の到着を待っていたという。洞房語園によると、宮本武蔵も吉原に来ていたそうで、吉原から島原の乱にむかったとの記述もある。