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今夜は40代からの婚活の世界を1000人以上を結婚に導いた結婚相談所マリーミー代表の植草美幸さんが紹介していく。後半はNHK大河ドラマ べらぼうで再注目されている吉原遊廓の世界を紹介していく。
植草美幸さんは1000人以上を結婚に導いた成婚率80%を誇る凄腕仲人で、ドキュメンタリー番組で相談者に厳しい言葉をかける様子が話題となった。
婚活市場で現在一番シェアが大きいのがマッチングアプリで、一方で年齢が上がるにつれて利用割合が減少する傾向にある。一方結婚相談所は年齢が上がるにつれて利用割合が増えていて、約6割が40代以上となっている。結婚相談所で相談を受ける場合身分証明書意外にも収入証明書など多くの書類を出す必要がある。また結婚相談所の多くは連盟に加盟していて、お見合い相手は連盟に加盟している結婚相談所に登録している数万人から選ぶことができる。結婚相談所では入会するとまず写真を撮り、カウンセリングを行ってプロフィールを作成する。プロフィールを元にお相手を探し、マッチングしたらお見合いをする。その後デートをして婚約して退会となる。植草美幸さんは主にプロフィール作成のためのカウンセリングを行っていて、早い人では8日間で成婚に至ったケースもあるという。
植草美幸さんの母も仲人をしていて、成人してからがアパレル業界で独立して会社を立ち上げた。しかしリーマンショックでアパレル業が経営不振となったことから母親のノウハウを活かして結婚相会社を立ち上げた。植草さん婚活で大切にしているのがカウンセリングで、本気で結婚をする上で欠かせないという。
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カウンセリングを行うのは、東京・青山にある結婚相談所マリーミー。植草美幸コースを受けるさちえさんと唐澤さんを取材。さちえさんは48歳。都内の実家で両親と同居し、年収は300万円。33歳から15年間、交際はない。植草美幸は、相手に求める条件のトップ5として、年収や年齢などを挙げた。さちえさんは、年齢は上下10歳ぐらいとしたが、植草美幸は、48歳で38歳を捕まえるのは、相当な経済力と美貌がなければ無理などと話した。さちえさんは、書道5段を持っている。字が上手いと相手の家族から重宝されるという。服装は、バスト・ウエスト・ヒップの3ポイントのうち2ポイントのラインをはっきり出すことが重要だという。お見合いで断られるとき、「ダサかった」という理由もあるという。両親と同居しているさちえさんは、親の介護方針を明確にすることが重要だという。植草美幸は、80歳になる母親に、50歳近い娘がご飯を作ってもらうのはありえないことなどと指摘。
次に訪れたのは、調布市に住む唐澤さん・42歳。職業は映像制作。年収は300万円。交際経験はない。結婚相談所の女性が相手に求める年収は700万円が最も多い。男性が相手に求める年収は500万円。植草美幸は、お見合いで自分の仕事の具体的な話をするようにアドバイス。自分の夢は語るとフラレるため、夢は語らないように注意した。唐澤さんは、求める条件などについて、年齢は25歳くらい、理想は宮崎あおいなどとし、植草美幸は、だから結婚できないなどと指摘。カウンセリングは、入会者に自分の状況を理解してもらう場。植草美幸は、コミュニケーション能力が低下していて、お見合い相手が目の前にいるのに声をかけないケースもあるとし、スタッフに「声をかけてくれないから帰る」と電話が入ることもあるという。
現在出会いの場として相談所の他に体験型の婚活イベントが大人気。人気なのは婚活バスツアー「ハピネスツアー」は東京・横浜・大阪などで毎週末開催している。婚活バスツアーのカップリング率は4~5割、チャンカワイさんもバスツアーがきっかけで結婚したという。バスツアーに密着、午前8時40分に新宿センタービル前で身分証確認を終えると乗車。今回は40代50代が参加条件で男性14明、女性13明で箱根巡りで参加費は男性18800円、女性15800円。エントリー順で女性は窓際、男性は隣に座りプロフィールカードを交換、到着までに男性はローテーションで席を移動する。到着前にインプレッションカードで印象が良かった異性にチェック、5~6人の班分けを行う。箱根ホテル小涌園でのランチビュッフェではお酒も入り、箱根神社からはフリータイムとなる。
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婚活バスツアーに密着、勝負のフリータイムとなる箱根神社に到着し意中の相手を誘っていく。帰りのバスではカップリングの発表がありこの日のツアーでは参加者27人中12人6組がカップリングに成功、カップリング率4割超えを達成した。
べらぼうの舞台にもなっている吉原。大河をきっかけに、いま吉原ツアーが組まれるほどの盛り上がり。340年存在した吉原遊郭の真実とは。吉原を作った謎の人物など、有澤さんと安原さんに聞く。
吉原遊郭の年表。1617年元吉原が誕生し、そこから341年間にわたり存在。1958年に売春防止法が施行され、幕をおろした。元吉原があった現在の人形町あたりは、葭という植物が生い茂る場所だったため、吉原と名付けられたという。
吉原を作ったのは庄司甚右衛門。1603年江戸幕府誕生とともに江戸に華を添えたのが遊女屋。遊女屋は、新興都市の景気を上げると共に、街の治安コントロールにとっても大切な場所だった。そこに目をつけた遊女屋の代表格庄司甚右衛門は、幕府に提案し、幕府公認の色街建設の許可を得る。それが吉原遊郭。人形町あたりではじまり、その後千束に場所を移し、大遊戯場として300年の歴史を刻んだ。広さは東京ドーム1.6個分で、最盛期には3000人の遊女がいた。 遊女の商いに関わる者も含めると、約1万人が生活していたという。遊女のなりては様々で、好んでなる者もいれば、貧しい家族のための者、身売りされてくる者も。幼い子だと7歳から禿という遊女見習いをやっていた。吉原の遊女屋は妓楼と呼ばれ、200軒がひしめき合っていた。
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約2万坪の吉原遊郭には独自のシステムが存在した。1つめが堀と囲い。江戸城に習い、江戸水路を利用した堀で遊郭を囲んだ。この堀は生活用水が黒く濁っていたことからお歯黒ドブと呼ばれ、遊女たちが逃げられない残酷な工夫になってしまった。さらに遊女管理のため、遊郭の中に居住スペースも設けた。2つめは大門。吉原遊郭に入るための唯一の入口であり、警備の目を光らせた。さらに門へと続く五十間道をS字に曲げて内部を見えなくすることで、世間と色街を隔絶したとされているが、ワクワクさせる意図だったとする説もあるそう。現在も五十間道は名残があり、S字カーブを進むと吉原大門跡が現れる。3つめは吉原遊郭という名の町。甚右衛門は、遊女の居住スペースのほかに、医者や八百屋などを配置しひとつの町として成立させた。桜なべ中江では、遊郭時代から続く料理がたべられる。馬力をつけるという言葉の語源は、吉原に来た客が桜なべの馬肉を食べスタミナをつけたところにあるという。4つめは客と遊女の顔合わせ。富裕層の客は自ら妓楼に足を運ぶのは恥ずかしいと考えていたので、遊女との顔合わせの場である揚屋、のちの引手茶屋を作った。引手茶屋は妓楼の案内や予約をする店。主がすすめる高級遊女を指名し、宴を楽しみながら遊女の到着を待っていたという。洞房語園によると、宮本武蔵も吉原に来ていたそうで、吉原から島原の乱にむかったとの記述もある。
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最盛期には3000人いた吉原の遊女。厳密な階級社会だったそうで、妓楼は人気などで大見世、中見世、小見世に格付けされた。遊女たちにも階級があり、トップ層の花魁はさらに3層に分かれていた。まず1番上が呼出。大名や武士が客で、三味線から政治情勢まで熟知していたという。その下が遊び代金三分の昼三。さらに下が付廻し。人気は昼三に比べやや劣る。上位2つの呼出と昼三は妓楼から引手茶屋に客を迎えにいくのだが、それが有名な花魁道中。花魁道中の編成は、遊女見習いの禿、禿を卒業した新造、雑用係の若い衆、マネージャーの遣手。それらを従え、300メートルを1時間かけて歩く。引手茶屋に赴いた花魁は客と共に宴を楽しむのだ。花魁道中にかかる費用は現代価格で200万円。遊女の1番下の階級は河岸見世。彼女たちは羅生門河岸という吉原の河端にひしめき合って暮らしていた。二畳の部屋で、線香が燃え尽きるまでの僅かな時間で、現代価格2500円で春を売り続けたという。河岸見世の遊女は、27歳を過ぎた者や器量に恵まれなかったものが落ちていく。その最後も壮絶で、梅毒などの流行り病は避けられなかった。吉原外の違法営業の遊女も多数存在していたそう。新宿や板橋などの宿場には幕府黙認の飯盛り女という遊女がいたり、川べりの船に客を呼び込む船饅頭などがいたりした。華やかだが闇も深かった。
吉原遊郭を一晩で貸し切った大富豪が、紀伊国屋文左衛門。紀州からみかんを運んできたことで大成功した人。吉原全部を貸し切ることは「大門を打つ」と言い、現代価格で2億を超える。紀伊国屋文左衛門は豆まき代わりに金を投げて遊んでいたという。華やかなものの裏には闇があるのはいまでも同じ、とマツコはコメントした。