首都圏ネットワーク (大空襲 80年)
80年前のきょう3月10日に襲った東京大空襲は、アメリカ軍の爆撃機が下町の大部分を焼き尽くし、およそ10万人が亡くなったとされる。きょうは各地で追悼の動きがあった。一方で当時10歳だった人は今、90歳になる。悲惨な経験を語れる当事者は年を追うごとに確実に少なくなっている。そうした中、被害の記憶を次の世代に伝える取り組みが一層、求められている。墨田区にある東京都慰霊堂では秋篠宮ご夫妻も参列されて慰霊の法要が行われた。東京都の小池知事や遺族の代表などおよそ160人が焼香し、犠牲になった人たちを追悼した。慰霊堂にはその後の空襲も含めた10万を超える犠牲者の遺骨が今も安置されたままで大半は身元が分かっていない。東京大空襲はアメリカ軍が日本の都市部への無差別爆撃へと本格的にかじを切る転換点となった。多くの焼い弾を搭載できるB29爆撃機を開発したアメリカ軍は1944年8月までにマリアナ諸島を占領し基地を建設。日本の本土全域が空襲圏内となり、それまでの軍需施設を狙った精密爆撃から戦争を早期に終結させるためとして焼い弾で日本の主要都市を焼き尽くす無差別爆撃へと変わっていった。その最初の本格的な都市空襲となったのが東京大空襲だった。およそ300機のB29爆撃機が木造家屋の密集地域を狙って1600トンの焼い弾を投下。10万人が亡くなったほか100万人が何らかの被害を受けたとされている。墨田川に架かる言問橋のたもとでも追悼集会が開かれた。東京大空襲では言問橋も炎に包まれ逃げようとして橋の上にいた多くの人が犠牲になった。集会に参加した松野康子さんは7歳のときに空襲を経験。母親などに手を引かれ一晩中、火の手から逃げ続けたという。戦後およそ40年にわたり小中学校などで教師を務めた松野さん。折に触れて子どもたちに自身の経験を伝え戦争の悲惨さを訴えてきた。教壇から退いた今も証言活動を続けている。松野さんは悲惨な空襲の実態を知ってもらうことで若い世代に平和について考え続けてほしいとしている。