狙われた伊江島 1500人犠牲

2025年6月23日放送 23:18 - 23:31 TBS
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沖縄本島からフェリーで30分の伊江島。周囲は約22キロで人口は約4000人である。美しい海に囲まれ、家族連れが海水浴を楽しむ姿も。しかしこの島には80年前の”戦争の爪痕”が残っている。村の公益期間だった「公益質屋」。攻撃を受けながらも残った唯一の建物で壁には大きな穴があり内部も傷だらけである。砲撃のすさまじさを今に伝える建物の背後にあるのは標高172mの城山である。ここには日本軍の陣地があった。海には米軍の艦隊が集結して激しい艦砲射撃が行われた。伊江島の闘いは「沖縄戦の縮図」と言われている、当時、伊江島には建設中の日本軍の飛行場があり”東洋一”と言われたこの拠点が米軍から狙われたのである。村民の死者は島にいた半数の約1500人となり、一家全滅は90戸となった。犠牲者の多さに加え住民の戦闘参加や勤労奉仕・集団自決なども起こり、沖縄戦が伊江島に凝縮していた。かつての日本の陣地の1つがあり、住民も協力して手彫りで約50人入っていた。日本軍は避難中の住民をかり出し戦闘班を編成し、中には赤ん坊を背負い斬込みに参加した女性もいたという。防空壕として使われた洞窟「アハシャガマ」の奥行きは20mほどだが約150人が避難していたが、伊江島の組織的戦闘が終わった翌日には集団自決が起こったといわれている。背景にあったのは日本軍と住民の”軍民一体化”である。当時住人は青年義勇隊・防衛隊・婦人協力隊などに根こそぎ動員されていて「捕虜になるくらいなら自決せよ」という軍の方針が住民に浸透していたのである。当時13歳だった東江栄一さんは壕では「自決」か「投降」か厳しい選択を迫られていた。死を覚悟する中、東江さんの父は「壕から一緒に出よう」と決断した。生き残った住民の多くは島の収容所に送られたが、食糧難や栄養失調で亡くなる人もいた。そして帰ることが許されたのは2年後で、故郷は様変わりしていた。戦後、伊江島には米軍基地が建設されていた。


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