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1995年1月17日の阪神・淡路大震災から30年。「6434人が犠牲となった」。先月、神戸・東遊園地にある慰霊と復興のモニュメントに新たに銘板を掲げたのは、神戸・中央区の切り絵作家のとみさわかよのさん。銘板刻まれているのは祖父・多田英次さんの名前。多田英次さんは、神戸大学で教授を務め、東灘区で長年暮らしていた。心臓や大動脈に病気を抱えていた英次さんは阪神・淡路大震災で自宅が損壊し、宝塚の親族宅に避難した。震災発生から1年後、英次さんは大動脈瘤破裂で死去。とみさわかよのさんは切り絵作家として被災後の神戸の街を描き、震災と向き合ってきた。英次さんの死については「震災がなければもっと生きていてくれたはずだという思いがすごくある でもその日いきなり亡くなった方のことを思うと、私の家族も震災で亡くなったんだととても言いにくい」と複雑な感情を明かした。しかし震災30年を迎え、祖父の死に対する感情に一つの区切りを付けたいとモニュメントに名前を刻むことを決めた。
2000年に生まれた「慰霊と復興のモニュメント」。当初銘板を掲げることができたのは建物の東海などによる直接死や、負傷の悪化などで死亡した災害関連死の死者だけだった。しかし3年後から遠因死の人々の銘板も掲げることができるようになった。遠因死として名前を刻まれた廣畑帆乃香ちゃんは生後45日で死去した赤ちゃん。不妊治療の末に誕生したが心臓に病気を抱えていた。地震で人工呼吸器が一時停止し、病状が悪化しこの世を去った。廣畑帆乃香ちゃんの両親は「この世に存在していた証 生きていた証がほしいと思いました 銘板の掲示がひとつの区切りになった気がします」などとコメントしている。
神戸・東灘区の山下准史さんは震災発生当日、両親が暮らしていた実家が全壊。母・芙美子さんはなんとか脱出したものの、父・金宏さんは帰らぬ人となった。教員だった山下准史さんは神戸に残り、母・芙美子さんは大阪の親族宅に避難したが夫を失った悲しみが癒えることはなかった。山下准史さんは「とにかく父と一緒に死にたかったとずっと言っていましたので」「もうちょっと声のかけ方があったのかなと思いますけどね」などと振り替えた。震災発生から5ヶ月がたった6月17日、芙美子さんは行方不明に。翌日、神戸で亡くなっているのが見つかった。大阪の親族宅から神戸に向かい自死したとみられている。山下さんはモニュメントに母の名前も刻もうと決めた。
モニュメントの運営を担う、堀内正美さんは、喪失を公共の空間で共有することに意義があると考えている。「寄り添える場としてあのような場があることはとても大事なんじゃないかなと」と話す。あの日から30年を迎えた神戸・東遊園地。山下准史さんの姿もあった。慰霊と復興のモニュメントに掲げられた母親と父親。それぞれの銘板の前で手を合わせた。山下さんは「ここに私を含めて来る人はすごく思いが詰まっているのでこれからも大事な場所として残っていってほしい」と話していた。