西念寺 徳川家康を支えた服部半蔵

2025年10月2日放送 7:44 - 7:54 テレビ朝日
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東京・四谷にある西念寺。服部半蔵正成は、1590年に徳川家康が江戸に入ったとき、家康に仕えていたという。1540年頃、忍者の家系に生まれ、16歳にして初陣を果たす。現在の愛知県蒲郡市にあった上ノ郷城の夜襲に参加。敵将の鵜殿長照を討ち取り、家康側の勝利に貢献したとされる。1570年、徳川家康・織田信長とともに、浅井朝倉連合軍と戦った姉川の戦いでは、一番槍として活躍したとされる。本能寺で織田信長が討たれたとき、徳川家康は少人数で、大阪・堺を見物していた。信長と同盟関係だった家康も命を狙われ窮地に。地元・三河まで一刻も早く逃げる必要があった。服部半蔵正成は、敵の多い伊賀の山中を抜けるとき、数百人規模の忍者衆を集め、家康の窮地を救った。三方ヶ原の戦いでも、半蔵は数々の戦場で功績を立て、奮戦ぶりもあいまって、鬼半蔵と呼ばれるようになった。家康が半蔵に与えた褒美の槍が、西念寺の本堂にある。半蔵は、槍の名手として活躍した。現在の槍の長さは258cm。重さは7.5kg。家康から贈られた当時は、約440cmあったという。家康と、家康を支えた徳川四天王を中心とした十六人の武将が描かれた掛け軸にも、半蔵が描かれている。
西念寺には、服部半蔵正成の墓もある。戒名には「西念」という文字が入っている。西念寺は、服部半蔵正成が創建した寺。寺には、徳川家康の嫡男・松平信康の供養塔もある。半蔵が西念寺創建にあたって、松平信康の供養を一番にと考えて建てたという。1575年、家康が武田勝頼と対戦し、陣を引こうとしたとき、信康はしんがりを望んだが、織田信長から、武田勝頼との内通を疑われ、切腹することになった。半蔵は、信康の切腹の介錯を命じられたが、それを辞退した。信康が切腹した後、半蔵は西念を名乗り、仏門に。江戸・麹町の清水谷に、庵を構え、信康の菩提を弔ったという。これが西念寺の始まり。半蔵は、自分が戦功をたてるためとはいえ、討ち取った多くの人の命と菩提と、信康の供養のために西念寺を建てたという。


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