首都圏ネットワーク 大空襲80年
慰霊堂の遺骨は80年たっても大半の身元が分かっていない。あまりにも数多くの犠牲者が出たということがその要因となっている。東京大空襲は3月10日未明、東京の下町一帯を米軍のB29爆撃機が襲った空襲。一夜にして10万人が犠牲になった。犠牲者については身元が分かった少しの人を除いて大半は誰か分からないまま遺体が公園など手近な場所に埋葬された。遺体は戦後掘り起こされ火葬されましたが身元は確認されず遺骨が慰霊堂で一括して保管されることになった。こうした中、遺骨が手元に戻らないまま戦後80年を過ごし続けた遺族もいる。埼玉県に住む永田郁子の父の録太郎は46歳のとき、今の江東区で東京大空襲の犠牲になった。戦後70年以上たって父の遺骨が慰霊堂に安置されていることを確認し手続きを進め、9年前、ようやく手元に返ってきた。しかし同じく空襲で犠牲になった母と3人の姉は遺骨が見つからないままとなっている。生き残った自分が肉親の弔いを十分、果たせていない。苦しい思いを抱えたまま長い時間を過ごしてきた。東京大空襲の犠牲者の名前を広く伝えることで被害の実態を後世に残そうと遺族などで作る「東京空襲遺族会」が取り組みを進めている。背景にあるのが都の姿勢。8万人余りの犠牲者名簿を作成しているがこれまで広く公開していない。活動に参加している宮下佳子も父方の祖母と叔母が空襲で犠牲になった。団体が遺族と連絡を取り犠牲者の名前や年齢などを確認。80年となることしは438人について名前を縫い込んだ織物を初めて作り集会などで展示することを目指している。