- 出演者
- 桑子真帆
今、韓国で日本歌謡が人気を集めている。きっかけは去年放送された韓国のテレビ番組。韓国では長年、日本語の歌が放送されることがタブー視されてきた。韓国政治が揺れ動く今、日韓の文化交流はどうなっていくのか?
オープニング映像。
ソウル郊外のスタジオに現れたのは近藤真彦さん。この日、韓国の歌番組の収録にはじめてのぞんだ。去年、日本語の曲が放送され注目された番組。代表曲「ギンギラギンにさりげなく」が歌われ、その動画はネット上でも約800万回再生された。近藤さんは一躍、韓国で話題の人となった。近藤さん自身、30年ほど前の出来事で日本語で歌う重みを実感していた。30年ほど前にタクシーで日本語の歌はタブーだと感じたという。
日本語の歌がタブー視されてきた背景には、日本による植民地支配がある。学校では日本語の授業が行われ、子どもたちに教えられたのは日本の歌だった。1965年、日韓国交正常化。その後も韓国は国民の対日感情を理由に日本の大衆文化を規制してきた。80年代に入ると、日本の歌謡曲が海賊版で出回るようになる。当時、親世代とは日本の歌に対する温度差があったという。1998年、日韓共同宣伝で日本文化が段階的に開放。2004年には音楽CDも販売されるようになった。しかし、日本語の歌をテレビ放送することは自主規制が続いてきた。プロデューサーのソ・ヘジンさんは20年前に日本語の歌の企画を出ししたときには突き返されたという。しかし、近年は韓国のエンタメが世界進出し、日本の文化を受け入れる土壌がメディアに生まれたと確信したという。こうして日本歌謡の放送が実現し、歌番組としては異例の12.5%の最高視聴率を記録した。非常戒厳をの翌日だったが、ソウルの店は普段通りに営業し、歌番組を観ていた。
韓国では1998年から日本の大衆文化が段階的に開放されて以降、出版・映画・アニメ・音楽CDを解禁が進み、去年日本語の歌をテレビ放送したことが大きな話題となった。金さんは、歌は心に残るもの、産業に対する影響への危機感があったのではないか、段階的が開放の最後が音楽だった、歌に対する開放するハードルとテレビで歌を流すというハードルが最後まで残っていたのだと話した。国際部の長砂貴英さんはデジタル配信で市民が日本の音楽に触れるのは当たり前になっている、テレビで放送されて話題になったときまだ自主規制だったと思い出したという。2019年に日本製品の不買運動が広がったときには、周囲を気にして日本文化を楽しみにくい空気だったという。金さんによると、K-POP世界進出、若者世代の発見、中高年のノスタルジーの3つはつながっているという。
1980年代からNHK紅白歌合戦にも3回出場したキム・ヨンジャさん。日本と韓国で活動を続けてきた。現在は韓国で暮らしている。歌の魅力に目覚めたのは10代のときで、規制下で聴いた美空ひばりさんの声に憧れたという。1974年、15歳のときに韓国の演歌とされるトロット歌手として韓国デビュー。トロットは大衆から親しまれた一方、当時の韓国では日本の色が濃い・倭色として規制の対象にされていた。発売禁止になった倭色歌謡は250曲もある。キム・ヨンジャさんは好きな演歌を極めたいと本場・日本へわたる。2つの国のはざまで歌手として進む道を模索していた。あきらめきれずにいたのは、ふるさとで好きな歌を歌うという願いだった。50歳になった2009年に韓国に戻ることを決意したが、テレビでは日本語のヒット曲を歌うことができず、ゼロからの再スタートとなった。トロットに再挑戦し、幅広い世代から支持された。そして去年、歌手人生ではじめて韓国のテレビで日本語の歌を披露した。今、日韓の言葉で歌える喜びをかみ締めている。
キム・ヨンジャさんが日韓でデビューしたのは1970年代で当時はステレオタイプが強く働いていた、ステレオタイプの間でバランスをとりながら頑張ってこられた、それが今強さになっている。文化交流について、金さんは日韓だけではなくグローバルな枠を壊していく次の段階になっていると話した。国交正常化60年、韓国は大統領が罷免された場合は今後の外交関係は見通せない、スマホやデジタル配信で空いての国の文化がこれほど身近になっているのは大きく異なる状況、国を超えたつながりが注目。
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国交正常化60年、歌がつなぐ日韓の未来は。話題になった歌番組は2025年もシリーズ化が決定。きょうも韓国の町に日本の歌が流れる・
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