- 出演者
- 藤森慎吾 小泉孝太郎 黒柳徹子 高嶋ちさ子
オープニングが流れた。
小中高全ての教科書で名前を見る偉人を祖父に持つタカトシさんを紹介する。偉人はいったい誰なのか。父も有名で徹子さんと深い関係があるといい、東京都世田谷区に住むが実家は成城で生まれ育った。現在は家族5人暮らし、職業はアパレルブランドのデザインやアウトドアグッズの製作などのクリエイティブディレクターをしている。先祖もクリエイティブな話をしていて顔も似ていて、1日180本タバコを吸うほどの愛煙家で先祖と同じ文才があり連載をしている。スニーカーやギターを集め桐朋学園大学音楽部付属の子供のための音楽教室に通っていた。父は作曲や指揮を行う音楽家で大河ドラマ「赤穂浪士」のテーマやテレビ番組の司会なども務めた。大ヒットとしてタカトシさんの本名は「貴之志」、先祖の名前を冠した賞があるということ。正解は先祖は芥川隆之介。亡くなったのは1927年7月で亡くなる約2カ月前の貴重映像を公開、東京田端の自宅で家族と過ごしている映像でタカトシさんの父は三男で映っていない。祖父を知ったきっかけはくもの糸の紙芝居を祖父作だと聞いたこと。タカトシさんの父は芥川也寸志さん、赤穂浪士のテーマや作曲した八甲田山と八つ墓村が第1回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞、徹子さんと共演したNHK「音楽の広場」では連弾を披露していた。
10年前から徹子の衣装プロデューサーとして活動する田川啓二さん。毎日変わる「徹子の部屋」の衣装や、NHK紅白歌合戦など大きな舞台のお召し物などあらゆる徹子の衣装をコーディネートしてきた。長野・中軽井沢エリアにある田川さんの別荘に潜入する。
軽井沢にある田川啓二さんの別荘へ潜入調査。大きな窓で絵画のように四季が見える設計されている。豊かな自然でニホンザルも遊びに来るという。徹子とはプライベートでも仲良しで、何度も訪れている。田川さんの本業はビーズ刺繍デザイナーで、作品は全て糸とビーズだけで手作業で作られている。廊下には作品が展示されておりギャラリー風になっている。床は椋の木の寄木細工。夏場でも涼しいので朝と昼は基本テラスで食事を取っている。徹子が来た時に必ずするものがぐらぐらゲーム。負けた後、夜な夜な練習していたという。祖父の田川大吉郎さんは政治家で、蒋介石と知り合いになり日中関係改善に尽力した。先祖様から継いだ土地と建物を昔のまま残したい思いで、床の間の板をそのまま使用している。
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- ぐらぐらゲームひまわりカエルゲッティイメージズジェンガニホンザルハワイ(アメリカ)パンダピクスタフィンセント・ファン・ゴッホヤギラクダ庄司乙吉徹子の気まぐれTV朝日放送テレビ東洋紡板東英二清水襄田川イク田川大吉郎蒋介石
2階には部屋が4つあり、透明の取っ手に拘っている。ゲストルームはセミダブルベッドを置いている。田川さんの部屋には天蓋付きベッドが置かれている。お風呂場は景色を眺めることができるが、サルと遭遇することもあるという。
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- ニホンザルロイ・リキテンスタイン
続いて徹子さんが泊まる寝室へ。部屋には徹子さんもコレクションしているドイツの置物も配置されており、テラスもある。徹子さんには絶対晴れるというおまじないがあり、実際に晴れた事があるという。
東京・不動前にある田川さんの仕事場兼ショップへ。1階では刺繍をあしらった雑貨やアクセサリーなどを販売している。2階の階段は寄木で建てられている。作業場では29年前からビーズ刺繍の教室も開催。一時期10枠に対して5000人の応募があったこともある。
栃木・那須にある田川啓二美術館へ。田川さんの刺繍作品やゆかりの作品が展示されている。中には徹子さんが着用したドレスも展示されている。ドレスには本物の宝石が使われており、ドレスの値段は1500万円。お土産売り場には徹子さんに相談して作ったパンダのブローチなどが販売されている。
田川さんの兄・雅一さんは缶コーヒーシリーズの「ワンダ」などを手掛けたグラフィックデザイナー。田川さんは兄から「得意なことで生きていかないと辛くなる」などと助言を受け、29歳の時に会社員を辞めビーズ刺繍の世界へ。ビーズの本場・インドで修業したがすぐに日の目をみなかった。田川さんの才能を見出したのはコシノジュンコさんで、サンプルを見てその場でオーダーを出した。これがきっかけで森英恵さんなどの世界的デザイナーからも依頼を受けるようになり、日本中に名が知れ渡った。そして2002年、徹子の部屋に出演。田川さんはテレビなどの情報から徹子さんなら自分の言ってる事を理解してくれると思っていて、当時から徹子さんに会いたかったという。その後仕事で徹子さんに衣装を提供したりプライベートでも交流するなど友達に。2015年、あるプロデューサーから徹子さんのマネジメントを打診された。徹子さん本人に相談したところ、才能を潰すことになると断られた。しかし田川さんは新しい徹子さんの魅力を伝えられると思い、徹子さんを説得しマネジメント業務が始まった。
長野・軽井沢にある黒柳徹子ミュージアムが7月5日にオープン。建物は渋谷駅周辺の再開発などに携わった内藤廣さんが設計。敷地内には新しくバス停が設置された。構想は7年で、土地探しや建築会社の手配など全て田川さんが行った。7月4日のオープン前日、関係者向けの内覧会と徹子さんの記者会見が行われた。約650平米のミュージアムには徹子さんの写真やコンサートなどで着用した衣装など約320点が展示されている。お土産売り場では徹子さんグッズが販売される。記者会見には報道陣15社が集結した。
黒柳徹子が登場。本人イチオシはグラスペーパーウェートという本人が約400個集めたアンティークのガラス文鎮だという。記者会見時に黒柳徹子が着用していた衣装は麻の葉柄の着物に田川啓二がビーズ刺繍を施したもの。黒柳徹子はきらびやかにしてくださったが、重いんですよなどと話した。記者会見当日は晴れていたが、前日は雨だった。黒柳徹子はその事について、前日に雨をとめるおまじないをしたなどと話していたが、黒柳徹子が帰った後はまた雨が降った。再びおまじないをしたためオープン当日も晴れた。
オープン当日、オープン前からミュージアムには人だかりが出来ていた。オープン3分前、田川啓二は何やら揉めていた。
多くの客が待っていたオープン3分前、田川啓二は揉めていた。3分前なのに映像モニターが映らないというハプニング。それでもどこかを押すとなんとか映像が映るようになった。映像モニターについて、何回か不具合が起きていたので気になっていた、朝ついていないからつけてと言ったらつかなかったので切れそうになったなどと田川啓二は話していた。穏やかな顔に戻った田川さんは自らお客様をお出迎え。黒柳徹子ミュージアムがオープンした。今後、ミュージアムでは季節ごとに展示物を変え、徹子さんの音声案内も導入する予定。玉ねぎ頭のような展望台からは晴れると浅間山が望めるという。路線バスも運行開始。田川啓二さんが作り出す魅力的な衣装の数々。黒柳徹子には自分が着る衣装について話を聞くにも洋服が関係ある、テレビは魅せるものという思いがあるという。
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愛知県岡崎市は県中央部の南寄りにある旧城下町で旧東海道の宿場町でもあった。今は自動車関係の工場が目立つ。浅井信太郎さんは味噌の製造・販売会社を経営。忙しく過ごしているが1週間おきの土曜に幸福時間がある。自宅から車で20分ほどの地域の施設で専門家に教わりながら殺陣をすること。殺陣は演劇や映画で決闘や捕物など戦う場面の演技で時には1人で多数を相手にして入り乱れてこなす。2年前に旅行先で見て、始めたという。武道の稽古のように挨拶から始まるなど型が大事。
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- 北区(愛知)
徹子さんは自身の衣装について、テレビは魅せるものなので出演者の服にも興味を持ってもらいたいとの考えがあるといい、玉ねぎと呼ばれる髪型を変えない理由は洋服だけを注目してもらいたいとの考えがあるのだという。面白い服を着て皆様に見てもらいたいとも話している。
ちさ子さんは親友・水谷川優子さんとともに母校である桐朋学園・成城学園前駅周辺をめぐる。水谷川さんは総理大臣・近衛文麿の弟でオーケストラのパイオニアとして知られる近衛秀麿の孫にあたり、はとこにも総理大臣・細川護熙がいるのだという。2人は街並みの懐かしさに感銘を受けながら進んでいくが、懐かしさの残る成城フルールという建物や、昔行きつけだった飲食店などに思いを馳せる様子が見られた。成城櫻子という店では「きじ焼弁当」という1430円のメニューを良く楽しんでいたといい、当時はバブルなので稼げていたのだという。そして、子供服のfamiliarも印象深いと2人は話していた。
聞き込みを行い、ファミリアが昔合ったことが判明した。続いて当時通っていた桐朋学園を訪れた。桐朋学園の音楽部は小澤征爾や田崎悦子ら世界的な音楽家を多数輩出してきた名門校で、注目のチェリストの渡邉伶音さんに会った。