- 出演者
- 黒柳徹子 俵万智
一斉を風靡した「サラダ記念日」から39年。俵万智は当時のブームについて、何が起こっているか分からなかった。嬉しいのと同時に怖いなというのもあったと話した。1987年、番組に出演した時の映像が流れた。短歌について、興味を持ってくれたのは嬉しかったという。父・好夫さんは物理学者で磁石の研究をしていた。勉強が好きな人だったといい、サラリーマンをしながら、博士論文を書いたという。父の影響で俵万智も勉強が好きだった。歌人になったことについて、好夫さんはすごく喜んでくれたという。
俵万智は40歳でシングルマザーになった。40歳で子どもを出産したことについて、体力的には大変だった。20代・30代でやりたいことをやったため、子育てを楽しむことができたと話した。東日本大震災の時は仙台に住んでいた。俵万智は仕事で東京にいたといい、数日後にやっと帰ることができたという。息子も地震のショックで赤ちゃん返りした。石垣島に住んでいた友達に気晴らしに来ないかと誘われ、海の見える部屋に居候させてもらった。すると、息子も元気になったという。ここで子育てもありだと考え、そのまま住み着き、5年間ほど島で暮らしていた。息子はその後、宮崎の中高一貫校で全寮制の学校に入学。息子がホームシックになったこともあり、俵万智は毎日ハガキを書いて送った。息子は現在22歳で大学生。大学では国語学を専攻しており、日本語を言語学的に研究しているという。
両親のサポートのため、数年前、仙台に戻った。最晩年、父・好夫さんは寝たきりの状態だったという。その時、母が父の本を大量に処分してしまった。それに俵万智は怒り、喧嘩になったという。息子にも電話をして話したところ、息子はおばあちゃんは何かしら、おじいちゃんに関わることをしたかったんじゃないと言われ、ハッとした。母にそういう気持ちだったか聞くと、本を整理している時は心が穏やかになったと言われたという。息子が気づいて言ってくれたことはありがたかったと話した。2024年に父が91歳で亡くなった。その時、俵万智は東京にいたという。大事な仕事をキャンセルしようか迷っていた時、緩和ケアの先生から、ここにいることをお父さんが喜ぶか、仕事に行くことを喜ぶか。そういう考え方もあるのではないですかと言われ、俵万智は仕事に行くことを決めた。その仕事が終わって地下鉄の階段をのぼったところで亡くなったという電話を受けた。父が亡くなった後、言葉が溢れてきたが、死を題材にするのはどうなのかという気持ちがあった。しかし、緩和ケアの先生のどっちをお父さんは喜ぶかという言葉が思い浮かんだ。私の詩が好きだった父は詠むという方を選ぶと思い、気持ちが吹っ切れ、父を見送る詩を詠むことができた。俵万智は「生きる言葉」というエッセイを出版。子育ての話もかなり書いたといい、どのようにして子どもが言葉の力をつけていったかを書いたという。母は元気だといい、米寿になった。俵万智は生きる言葉をどう鍛えるかについて研究している。
「DAIGOも台所 ~きょうの献立 何にする?~」の番組宣伝。
