- 出演者
- 藤森祥平 綾瀬はるか 小関裕太 喜入友浩 奈緒 小川彩佳
オープニング映像。
戦後80年が経過した現在も海底には旧日本軍の飛行機が沈んでいる。スタジオでは80年後も海底で形が残る技術が戦争に使われてしまったこと、その背景には1人1人の物語が会ったと思うので改めて向き合わないといけないと感じたなどと話された。
80年前、戦争が終わったというのに特攻に出た若者たちがいた。
奈緒が戦争について話を聞くため福島・いわき市を訪ねた。約4000人の命が奪われた特攻作戦だが、その中には終戦後に特攻に出た22人の若者たちがいた。最後の特攻隊員の親族の道脇紗知さん。曽祖父の弟が大木正夫で、当時21歳だった。道脇さんは元特攻隊員ら関係者30人以上に話を聞き、大木の思いを探った。大木には芳子さんという大切な人がいたが、なぜ彼女を置いて最後の特攻に出撃したのだろうか。
芳子さんと正夫さんは、同僚や正夫さんのめいとよく神経衰弱して遊んでいた。ヨーロッパでは世界を巻き込む戦争が始まっていたが、芳子さんには緊迫感はなく週末にはよく海に出かけた。海軍の航空兵を養成する機関の予科練は、競争率も高く少年たちの憧れだった。正夫さんは予科練の試験に合格し、芳子さんのおさげ姿の写真を持って予科練に入った。
神馬文男さんは1941年12月1日に予科練に入隊。大木とは同期で親友だったという。予科練は志願した主に14歳~17歳の少年たちを試験で選抜し、厳しい訓練を行った。後に約1600人もの予科練出身者が特攻で命を落とすことになる。神馬さんは当時予科練は青少年の憧れの的だったが、政府のやり方に乗せられたかもしれないなどと話した。
戸隠地質化石博物館で戦時中に使われた教材を見つけた。航空兵の増強を急ぐ国が子どもたちを志願させようと作らせた“国策”紙芝居で、早く少年飛行兵になり敵を倒しましょうなどといった内容となっている。国の方針にならい、子どもたちが読む雑誌も飛行機乗りへの憧れを煽った。予科練をPRした映画も作られ、主題歌「若鷲の歌」が大ヒットし、予科練は憧れと尊敬の対象となっていく。神馬さんと大木が予科練に入隊した7日後に真珠湾攻撃があり、太平洋戦争が始まった。
予科練では少年達を競わせて敗れた者の尻を海軍精神注入棒で叩くこともあり、この罰で失神する少年もいたそう。刻みこまれたのは連帯責任。さらに軍人勅諭では国のために命を捧げるという精神を叩き込まれたという。
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1944年7月、日本の統治下にあったサイパン島が陥落し戦況は大きく悪化。同じ頃、約2年半にわたる訓練を終えた大木正夫はいよいよ実戦部隊へ。その直前、福島へ里帰りしていた。わずか2時間の里帰りだった。
1944年10月、初めての特攻隊が出撃。死ぬことを前提とした体当たり攻撃の始まりだった。大木正夫の親友の神馬さんも18歳で特攻に志願したが、その理由は犠牲的精神や共同責任を叩き込まれたあとに1人だけ逃げることができなかったためだという。多くの若者が特攻に志願した。新聞は「身を捨て国を救う」と称え「一億特攻」という言葉も現れ出し、社会全体が特攻作戦を後押しした。これまで多くの元特攻隊員から志願した時の思いを聞いてきた道脇さんは「自分の意見を言うことができなかった。同調圧力ですよね」と語る。
当時の社会の空気を肌で感じていた人がいる。梅本さんが子供の頃に習った歌を今も覚えている。梅本さんの母・いとのさんは、地域の国防婦人会の幹部だった。出征兵士の見送りなどを通じて主婦たちを戦争協力へと向かわせた婦人会。梅本さんの家族には出征する男子がいなかったため、国のために役立っていないと周囲から圧力を受けていたという。そんな中、いとこが満州で戦死。その時梅本さんは、親戚で戦死者が出たことでお国のためになったと嬉しかったという。いとこの葬式は村を上げて行われた。国のために死ぬことが称えられていた。予科練からは戦地に行った約2万4000人のうち8割が戦死。大木と神馬さんの同期も半数近くが戦死。
再現VTRが流れた。
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最後の特攻隊を写した写真の中に大木正夫さんの姿があった。大木さんとともに出撃した川野和一さんは敵が見つからずに引き返し、燃料切れで不時着して生還した。川野さんらは玉音放送を聞いていないといい、放送から4時間後に沖縄への特攻を命じられたという。大木さんは特攻に行かなくても良いとなったというが、自分たちだけ生き残るのは承知できないとなって特攻へ向かったという。大木さんを含めた18人が戦死。不時着して生還したのは5人。アメリカ軍の被害は記録がない。大木さんの親友・神馬さんは「国民が喜ぶなら犠牲になってもいい。だから特攻に行ったと思う」などと話した。最後の特攻隊の親族の道脇さんは「心に決めて悔いはないかもしれない。でも待っていた人がいっぱいいたと思う」などと話した。
大木正夫さんの恋人だった芳子さんは戦後4年間にわたり大木さんの帰りを待ったという。大木さんが芳子さんへ送った手紙には「純情な芳子さんのことが大好きです。海軍に入って1年間は泣きました。自分でも何で泣いたのか分からない」などと記してあったという。
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芳子さんは去年亡くなった。晩年を過ごした部屋には2つの写真立てが並べられていた。大木正夫と大木の親友の勝二さん。芳子さんは勝二さんと結婚した。芳子さんは孫に「戦争は絶対だめだよ」と思いを伝えていた。
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取材について奈緒は「誰かを思う気持ちが自分を傷つける方向に行かざるを得なかった。改めて戦争が起こした事なんだと思った。」、小関裕太は「自分の親戚が亡くなって喜ぶのは今じゃ考えられない。」などと話した。
不時着した機体が海底で発見された。この飛行機に隠された悲劇について小関裕太が取材した。
鹿児島県南部の喜入前之浜町で海に不時着した機体について取材。戦後80年、最後の特攻機の不時着地点が明らかに。海底調査のウインディーネットワークの協力で海底に音波を出して届く時間の差から海底の凹凸を記録。海底70mにドローンを投入すると筒状の形をした物を発見。全体像を明らかにするため、鹿児島水産高校の協力も得てあらゆる方向から機体を撮影。7868枚の写真を組み合わせて3Dモデルを作成した。確認すると最後の特攻機「彗星」ではなかった。
「それSnow Manにやらせて下さい」、「黄金のワンスプーン」、「DOPE 麻薬取締部特捜課」の番組宣伝。