- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 山崎貴 野島達司 佐藤昭一郎
第96回アカデミー賞で「ゴジラ-1.0」は日本映画史上初となる視覚効果賞を受賞した。視覚効果、VFXににおいて日本はハリウッドの20年遅れと言われてきた。制作したのは東京・調布にある小さなスタジオ。ハリウッドの大作では1000人が投入されるが、わずか35人。邦画最大規模の予算だが、ハリウッドに比べれば超低予算。超少人数の戦いだった。これは日本の技術者たちが成し遂げた番狂わせの記録。
オープニング映像。
受賞した時の気持ちを聞かれ山崎貴は「びっくりした、ノミネートしてもらっただけでも嬉しい状態だった」などと話した。
1970年代、ハリウッド映画が日本中を熱狂させていた。それを楽しみにしていた少年が山崎貴はある映画に魂を揺さぶられた。それがスピルバーグ監督のSF映画の金字塔「未知との遭遇」だった。日本でいち早くVFXを手がけていたスタジオに入社。だがかなしい現実が待っていた。ハリウッドと比べるべくもない技術で「20年遅れ」と言われていた。山崎は日本ではまだほとんど使われていなかったソフトを独学で習得。鬼才、伊丹十三の映画でVFXを任されるまでになった。それは日本映画初の本格的なVFXとなったが理想には程遠かった。自ら監督となり壮大なSF映画を作りたいと思った。しかし無名の山崎を買ってくれる人などいるはずもなく、ひとり腕を磨き続けるしかなかった。そこに人生を変える男、映画プロデューサーの阿部秀司が現れた。山崎の腕にほれ込み「君の映画が見たい」と言ってくれた。阿部の口癖は「やってみればいいじゃん」だった。周囲の反対を押し切り監督デビュー作としては破格の4億5000万円を集めてきた。デビュー作「ジュブナイル」。それまでの日本映画にはないスケール感のVFXが話題を呼び、興行収入11億円のヒットを記録。その陰に阿部からの細かなVFXの注文があった。阿部の信念が山崎の可能性を広げていく。
5年後阿部が企画した「ALWAYS三丁目の夕日」。山崎は阿部のこだわりを満たすように戦後の東京の町並みをVFXで精緻に作り上げた。阿部は相変わらず手厳しかった。阿部という壁を乗り越え完成した映画は30億円超えの大ヒット。阿部は山崎の羅針盤となった。阿部は「山崎ならハリウッドに行ける」と言った。その試金石となる闘いが幕を開けようとしていた。きっかけは山崎。「三丁目の夕日」その続編でゴジラを出したい。だがゴジラは東宝が特撮技術を駆使し半世紀を超えて作り続けてきた看板。誰もが「東宝は許可しない」と思った。しかし阿部は突き進んでいった。山崎のためならば何でもする。「ALWAYS続・三丁目の夕日」の冒頭僅か1分のVFXシーンでゴジラが登場。僅か1分のVFXシーンながら山崎組の半数を投入する非常事態となった。
当時について山崎貴は「周回遅れに近い。後ろ見たらいるみたいな感じ。頑張って作っても、とんでもないものが発表される」などと話した。
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- 阿部秀司
果てしなく遠いハリウッドの背中。これまでにない才能が不可欠だった。山崎たちはSNSをチェックし面白いVFXを作っている人にメッセージを送信しスカウトを始めた。佐藤昭一郎はその時、10代の学生だった。YouTubeを見てVFXを独学で習得、大好きな山崎組のパロディーを作りSNSにアップしていた。さらにとんでもない才能と出会う。田口工亮。業界で「ひとりハリウッド」と呼ばれていた。遊園地のアトラクションで上映するゴジラを作ってもらうと驚がくの出来だった。山崎は「この仲間がいればゴジラができるかもしれない」。こんな時機を逃さない男が東宝・市川南だった。背中を押したのは阿部だった。ツルツルのゴジラから12年、再びゴジラに挑むと決めた。阿部という壁を越えその先へ。切り札のひとりが佐藤で大仕事を託した。映画冒頭で登場する架空の島「大戸島」をVFXで作り上げること。佐藤はこの仕事にかけていた。生まれは宮城県荒浜。小学5年生の時、東日本大震災が起きた。家は津波に流され間もなく母も病でこの世を去った。祖父母が親代わりとなったがいつしか学校に通うのがつらくなった。孤独の中、支えたものはVFXに没頭する時間。無料ソフトを駆使し植物のCGを作るのが異様に速かった。その腕を買われ託された映画冒頭のVFX。無名の山崎が阿部から託された時と同じだった。VFXのチェックに必ず来ていた阿部が姿を見せなくなっていた。末期のがんだった。
野島達司と佐藤昭一郎は独学でVFXの技術を習得した。山崎貴は「佐藤はちょっとおかしい。YouTubeみるとなんで出来るようになっちゃう。お寿司を握るんだけど、ふつうに高級寿司と同じレベルの寿司を握る。どこで覚えたのって聞くとYouTubeですって」などと話した。野島達司がVFXを始めようと思ったきっかけとなったのが「パイレーツ・オブ・カリビアン」だった。
2022年10月、映画製作は追い込みを迎えていた。だがいつもいた阿部秀司がいない。山崎貴は阿部抜きでVFXをオーケー出していくのは怖かったという。病床の阿部にできあがったカットを送ると阿部は「ゴジラの背びれが濡れてない」と言った。阿部は山崎の壁あろうとしていた。唸らせたいシーンは海だった。海はVFXの世界でタブーとされてきた領域だった。水のCGは粒子で作る。その粒子を細かくすることでより水に近づく。しかし細かくするほどデータが膨大になり作業時間が増えていく。山崎はそれでも海に挑むと決めたのは野島達司の存在だった。野島の趣味で作っていた海を見て可能性を感じたという。野島はロケに同行し海を撮影し続けた。その映像を見る内に白波と水面の境界線をみつけた。佐藤昭一郎は実在感ある島を作り上げ、そこでゴジラを暴れさせた。さらに新たな才能を開花させた。他のスタッフが何日かけても背景のCGを合成できないお手上げのカット。佐藤はその難題を半日で完成させた。製作は大詰め、山崎はチェックのスピードを加速度的に上げていった。山崎組は山崎も驚く変貌を遂げていた。2023年3月、映画は完成。初号試写に阿部が姿を見せた。映画をみて阿部は「よくできた。山崎の最高傑作だね」と言った。映画が公開されると客足を気にした。映画があたれば関わった人の人生が変わる、だから絶対にあてなければいけないと言っていた。そして阿部はこの世を去った。3ヶ月後、「ゴジラ-1.0」は第96回アカデミー賞の視覚効果賞を受賞した。
山崎貴は「阿部さんの思ってた近い所に行けたっていうのが良かった。ただいれば嬉しかっただろうな。少し前に亡くなっちゃったんで」などと話した。スティーヴン・スピルバーグはゴジラを3回も見たという。さらに水の見せ方がすごいと褒めてくれた。
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ゴジラ-1.0はアメリカで日本の実写映画史上最高の興行収入を記録した。ハリウッドを含め、今数々のオファーが舞い込んでいる。だがまずやると決めたのはゴジラの新作だった。野島達司は腕を磨き続けている。佐藤昭一郎の隣には仲間がいる。その姿を喜んでいるのは親代わりとなった祖母と祖父で、昭一郎の載った記事を宝物にしている。山崎貴は人生で始めて阿部のいない映画作りとなる。山崎への思いを綴った阿部の手記が残っていた。
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エンディング映像。
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