- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 葛西紀明 原田雅彦
世界のジャンパーたちが憧れる頂点。そこにたどり着いたのが小林陵侑だった。日本のスキージャンプ界が総力を結集して生み出した世界最強ジャンパー団。しかし日本のスキージャンプはかつて地に落ちていた。これはどん底から這い上がり世界ジャンパーに挑んだ男たちの物語。
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- 長野オリンピック
オープニング映像。
有馬嘉男らの挨拶。ゲストの原田雅彦、葛西紀明を紹介。葛西紀明は53歳だが現役を続けている。
1972年、札幌オリンピックが行われ、スキージャンプでは日本選手が表彰台を独占。日の丸飛行隊と呼ばれ世界を驚かせた。第2の飛行隊を目指し北海道では次々とジャンプ少年団が結成された。北海道・下川町にジャンパーに憧れた少年がいた。それが小学3年生の葛西紀明だった。経済的に恵まれない家庭で育った葛西は2歳年上の岡部孝信から道具を譲り受けた。少年団コーチの蓑谷省吾は葛西の資質に目を見張ったという。1988年、カルガリーオリンピックの団体戦で日本チームは11位の最下位で明生は地に落ちた。改革を迫られたコーチ陣は原田雅彦など若手を抜擢しチームの活性化を図った。そして天才ジャンパー、マッチ・ニッカネンを目指すべきモデルにした。オリンピック個人金、ワールドカップ総合優勝。2つを制する世界最強ジャンパーをいつか日本から誕生させる。再建プロジェクトの最大の目標となった。そして1人の少年に注目が集まった。大人の大会にテストジャンパーとして参加した中学3年の葛西だった。葛西は美しい前傾姿勢でジャンプし、大会優勝者の記録を超えた。日本代表入りしていた原田雅彦は葛西のテストジャンプに度肝を抜かれた。葛西は代表入りし、原田たちは触発された。日本チームにはもう1つ課題があった。それがヨーロッパの選手がやっていたV字ジャンプ。スキージャンプは飛距離と飛型で点がつけられその合計点で争う。当時、V字の飛型は減点対象。しかし飛距離を大幅に伸ばしニッカネンを破った。原田はそうそうにV字に取り組み始めた。葛西はカッコ悪いとV字が受け入れがたかった。日本は独自にV字の研究をスタート。託されたのは科学委員の渡部和彦。東京大学にある、風洞装置に活路を求めた。人形を設置し1つずつのデータをとっていった。そして38度が1つの基準だということが分かった。小野コーチたちはV字に転校した選手から選ぶと方針を打ち出した。葛西はV字にしないとオリンピックに連れてかないと言われ次の日からV字にチャレンジすることを決めた。葛西たちはラージヒルでの飛距離を10m以上伸ばしていった。そしてリレハンメルオリンピック。総合力を高めた日本チーム。団体戦でなら勝負できる。小野コーチは勝つカギは飛ぶ順番だと考え、エースの葛西は3番手、重圧がかかる4番手には最年長を原田に据えた。1番~3番までは上手く飛べ2位のドイツを引き離した。金メダルを取るには105m飛べば十分だった。しかし原田は97.5mと失敗ジャンプになり金メダルを逃してしまった。
原田のジャンプ失敗について葛西紀明は「僕も2本目は緊張した。エースだと130mくらいのジャンプはできたと思う。でも緊張で120mくらいしか飛べなかった。アンカーっていうのはキツイと思う」などと話した。原田雅彦は「金メダルは取れるんじゃないって心で思ってた」などと話した。V字ジャンプについて葛西紀明は「すぐできるだろ思ってたけどできなかった。めちゃくちゃ怖かった。最後開かなくて金具を曲げて片方の脚だけ内側にした」などと話した。
リレハンメルオリンピックから4年、次は長野での開催となった。リレハンメルで重圧に負けた原田は自分を鼓舞するために積極的にマスコミに前に立った。一方、葛西は孤独な戦いに身を置いていた。家族を喜ばせたいと飛び続けていたが長野の前年、一番の応援者だった母親を亡くしていた。さらに亡き母の誕生日に行われた試合で捻挫させていた足を悪化させてしまった。長野オリンピック、葛西は個人戦で7位。原田は個人戦で銅メダル。船木和喜は金メダルを獲得した。コーチ陣は団体戦で葛西を外した。どうしても長野で金メダルが欲しかった葛西は、張り詰めていた糸が切れてしまった。葛西は「どうでもいいと思っていた。正直、金メダルをとってほしくないと思ってました」などと話した。日本代表は金メダルを獲得。しかしそこに葛西の姿はなかった。葛西は「ジャンプ台から宿舎まで大号泣して帰った。それくらい悔しい思いをした」などと話した。残すは個人のワールドカップ総合優勝だけとなった。
仲間の快挙を喜ぶ気持ちにはなれなかった?という質問に葛西紀明は「なれなかった。逆に怒りというか、とってほしくないという気持ちだった」などと話した。原田雅彦は長野の団体戦の時に葛西のグローブをつけて飛んだ。ワールドカップの難しさについて原田雅彦は「1年間でトップになれるってそう簡単なことではない」などと話した。
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長野オリンピックで団体戦、個人戦、共に金メダルを獲得した個人戦。そこへ逆風が吹いた。国際スキー連盟がルールを変更した。それまでスキー板の長さは身重プラス80cm以下とされていた。それが身重の146%以下と改められた。この変更は小柄な日本選手に不利となった。背の高いヨーロッパ選手の板がより長くなってしまった。多くの長身外国人ジャンパーが勝ち星を重ね、日本の選手たちは対応に苦しんだ。葛西はスタイルを変更するも理想のジャンプにはたどり着けずにいた。2006年、原田は引退を決めた。再び低迷する日本チーム。力を入れ始めたのが若手の育成だった。原田は名門企業チームのコーチとなり地道に自身の経験を伝え続けた。さらに国の協力で最新のトレーニング施設も作られた。設計したのは山辺芳。山辺は東大の風洞装置で実験を行った1人だった。ここで最も大きな成長を遂げたのが高校生の小林陵侑だった。小林がジャンプを始めたのは6歳のころ。才能には恵まれていたが技術に課題があった。データを足がかりに小林のポテンシャルは引き出されていった。同じ頃、葛西は仲間が引退するなか現役を続けていた。そして41歳にしてオリンピックの個人銀メダルを獲得。ある日、ふと見かけた高校生のジャンプに衝撃を受けた。小林陵侑だった。葛西は自身のチームに小林をスカウトした。1年半後のワールドカップ小林は25戦に出場するも1ポイントも取れなかった。それまで小林を放任していた葛西は「悔しくないの?変わるなら教える」と伝えた。こうして小林への特訓が始まった。葛西は自身のトレーニングを見せつけた。小林は本気で世界最強を覚悟を思い知らされた。葛西は小林の欠点、ジャンプの踏み切りを見抜いていた。小林にはジャンプの瞬間に板が後ろに滑るスリップ現象が起きていた。葛西はインラインスケートを用意し地面にうまく力を伝える方法を学ばせた。教えている内、葛西の心は穏やかになっていった。葛西は「人のこと羨んだり、金メダルいいなとかそういう思いはダメだった気づいた。素直になれる。笑顔な自分が出てきた」などと話した。0ポイントのシーズンから2年後、小林は課題を克服し快進撃をみせ、日本人初のワールドカップ総合優勝を達成。2018年、北京オリンピック。本番1時間前に試技が始まった。しかし小林は出場選手の中でただ1人試技を飛ばなかった。たった1本飛ぶだけでスキージャンプは体力と集中力を大きく消耗してしまう。葛西は長年の経験から心身のピークを一発勝負の本番にぶつける独自の戦略にたどり着いていた。1本目小林は1位に躍り出た。2本目も大ジャンプを決め見事金メダルを獲得。葛西は「こんなに嬉しい気持ちになったのは初めてかもしれない」と涙を流した。小林陵侑は「長野オリンピックを見て、競技を始めた人を見て、僕は始めた。そういう連鎖だと思う。見つけてくれて、育てくれてノリさんが師匠でよかったと思ってます」などと話した。
小林陵侑の優勝について葛西紀明は「一緒に悩みながらやってきたことだったり、一緒にトレーニングしたことだったり、急に走馬灯のように映像が頭に浮かんで涙が出てきた。いつもの僕なら取られたって悔しい思いで泣くわけないけど、なぜか心にグッときた」などと話した。お互いの存在について葛西紀明は「ジャンプとしてはライバル。負けたくない存在。もっと続けてほしかった。もうちょっと一緒に飛びたかった」などと話した。原田雅彦は「憧れの存在。この人すごいって思い続けていた」などと話した。
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葛西紀明の故郷、北海道・下川町では今も少年団の活動が行われている。スキージャンプの聖地となった下川町は、今、全国から選手を受け入れている。葛西が岡部から道具を貰ったように高校生たちは今、葛西の道具を譲り受けている。葛西は現在53歳、若手に指導を行いながら自らもオリンピックでの頂点を目指し続けている。ミラノ・コルティナオリンピック、小林陵侑は再び金メダルを狙う。
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