2023年8月12日放送 22:00 - 22:30 テレビ東京

新美の巨人たち
丹下健三「広島平和記念公園」×戸田菜穂

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(オープニング)
今回は…

今回は丹下健三が手掛けた広島平和記念公園を紹介。

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オープニング

オープニング映像。

新美の巨人たち
シリーズ“夏の記憶”3 広島平和記念公園

戸田菜穂がやってきたのは丹下健三が設計した広島平和記念公園。デビュー作で戦後日本のあり方を世界に示した歴史的建築作品。敷地は南の平和大通りから北の原爆ドームまで。公園の主な建物3つあり丹下設計の広島国際会議場と2棟の広島平和記念資料館。本館は鉄筋コンクリート造で床を持ち上げて空間を作り柱で支える構造。これが公園の入場ゲートの役割をしている。渡り廊下で繋がったガラス張りの東館は柱と梁を強調しコンクリート造なのに、木造建築のような味わいがある。そして、公園の中央に立つのは原爆死没者慰霊碑。慰霊碑の向こうには原爆ドームが見え、元は産業奨励館という建物だったがすぐ上空で原爆が炸裂し無惨な姿になった。丹下はこの原爆ドームと、資料館と慰霊碑を一直線上に配置してシンボリックな平和の軸線を作った。その考えはどこから生まれたのか?丹下健三は東京1964年のオリンピックの会場や大阪万博の会場など国家的プロジェクトを担ってきた建築家。愛媛県・今治市で幼少期を過ごし、建築に目覚めたのは広島だった。九星広島高校時代に図書館で見つけたフランスの建築家ル・コルビュジエの本を見たと言うが、近代建築の基礎を築いた巨人でその代表的なものの1つがピロティ。一階を柱で持ち上げて、人々が自由に行き交う空間を考案した。モダニズム建築と呼ばれる大きな潮流を作った。その考えに衝撃を受けた丹下は、その作品に人の心を揺らすようななにかがあると語っている。丹下は東京帝国大学工学部建築家科に入学しその後前川國男建築事務所に入社した。41歳のときに広島平和記念公園で、人の心を動かす建築に挑んだ。

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まず広島平和記念資料館の本館のピロティについて、独特な作りになっていると広島大学の千代さんは語る。大地から立ち上がるような形で放射能や原爆でやられ、もう一度地面から生えてくる生き物のようにと丹下健三は考えたという。本館は原爆資料を収蔵する大切な場所で丹下は正倉院をイメージして高床式にしたという。一方、どっしりとした本館の隣に立つ東館は、柱と梁が特徴。千代さんは神社のように美しいプロポーションであり日本の伝統的な建物の数寄屋建築をイメージしたという。柱と梁の構造は鉄骨鉄筋コンクリート造で御影石の板で化粧している。丹下は、日本人の心に触れる設計を建物の随所に施していた。そこにはもう一つの深い理由が。1941年に太平洋戦争が始まり、建築の仕事が激減した丹下は東大の図書館に入り浸り研究に没頭した。中でも、興味を抱いたのはヨーロッパのまちづくり。広場を中心に市庁舎や教会、街が広がる都市空間の形。同じような空間が京都にもあることを見つけた。丹下は敗戦まもない頃に行われた新しい国家の姿を作り上げる設計コンペに応募し一等を獲得した。それは東京と富士山の裾の尾を鉄道と道路で結ぶ、真ん中に新たな首都を作るという壮大なプラン。さらに首都と富士山を結ぶ軸線の上には戦没者を祀る慰霊の神域を設計した。丹下の周りでも多くの人が亡くなっており、日本のシンボルと富士山と首都を結ぶ真っ直ぐな軸線場に神域を配置することで国に殉じた人々を弔う鎮魂の形を考えた。この案は実現はしなかったが、1945年8月6日に丹下は父が亡くなったという知らせを受けて母の待つ今治に向かう列車の中にいた。その時に新型爆弾が投下されたという出来事を耳にしながら瀬戸内海を渡った際に同じ日に今治は空襲で街は壊滅。母も亡くなり心の奥に突き刺さった。

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丹下は広島の戦災復興都市計画に自ら参加し、向こう100年草木が生えないと風評のあった広島だが、復興の図面を書き続けた。そして1949年に平和記念公園のコンペが開催されると140案の中から1等と設計の権利を獲得した。人々は広島平和記念資料館のピロティを通り抜け慰霊碑前の広場に集う。目の前には慰霊碑と原爆資料館が目の前に広がる。戦時中に考えだした鎮魂の建築をもとに原爆ドームにつながる軸線を犠牲者を弔うために作りがあげていた。広島平和記念資料館には、被爆した人々からよせられた数々多くの遺品が展示されている。訪れた人々は言葉を失い深く思いにふけるという。この公園は極限の中で必死に生きようとした人々の記憶をも包み込んでいる。

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丹下が手掛けた原爆死没者慰霊碑は当初、巨大なアーチ型のモニュメントになる予定だったが途中で変更した。千代さんは元々は平和のモニュメントとして作っていたが、設計していく中で、この場所に゙は慰霊碑が必要だと感じ途中で変更したという。元々慰霊碑は日系アメリカ人のアーティストのイサム・ノグチがデザインしていた。モニュメントや庭園などでマルチな才能を発揮。ノグチは地下からアーチを立ち上げて湧き上がるような死者の無念や、生きたいと思う気持ちを形にした。しかしアメリカ人に依頼したことに批判が発生し結局丹下が設計することに。野ざらしになっていた犠牲者を風雨から守りたいとそんな思いで古代の家型の埴輪からイメージしたという。今では核兵器の恐怖を世界に知らしめるシンボルとなった原爆ドーム。悲惨な記憶を思い出させると取り壊しの危機にあったことも。コンペの応募作でも2等や3等には原爆ドームは意識されず、丹下の案だけが原爆ドームを真正面に見据えていた。平和をただ祈るだけでなく闘い取る。広島平和記念公園は平和を作り出す工場なのだという。また平和記念公園のそばには広島市内を一望できるタワーのおりづるタワーが。眼下に広がる広島平和記念公園だが、さらに先を見据えた計画があったという。丹下は平和の軸線をさらに北に伸ばし原爆ドームの先にスタジアムや、体育館、図書館などを作ろうと考えていた。当時は予算不足で実現はできなかった。

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丹下は広島平和記念公園に文化芸術の拠点を作ろうとしていた。現在、平和の軸線のさらに北には図書館や美術館などがあり運動施設や子供向け施設などが次々に建築された。丹下の思い描いた平和が70年の時を経て形になろうとしている。

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(エンディング)
次回予告

新美の巨人たちの次回予告。

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