- 出演者
- 池上彰 栗山英樹
オープニング映像。
1991年放送「NHKスペシャル 我が友 本田宗一郎 ~井深大が語る“技術と格闘した男”~」を再放送。ホンダ創業者・本田宗一郎の仕事や人生に対する思いを探るドキュメンタリー。出演は本田の盟友でソニー創業者の井深大。本田の生き方を高度経済成長期の躍進に重ねて描く。スタジオゲストは北海道日本ハムファイターズ編成トップの栗山英樹。NHKの番組で様々なトップ経営者と対談している。
井深大と本田宗一郎は、時代を築き上げた盟友だった。社内報には、本田さんが残した技術や夢が残っていた。この資料の中の本田さんの言葉と井深さんの言葉を元にして、二人の対話を再現した。
二人のものづくりは戦後の荒廃の中始まった。本田さんと井深さんはまだ焼け跡が残る街並みで足並みを揃えるように会社を起こした。ソニーの前身である東京通信工業の設立書には、井深さんの決意が書かれていた。一方、本田さんの社内報には、高らかな社長挨拶が載っていた。本田さんが最初に作ったのは、自転車にエンジンをつけたもので燃料タンクは湯たんぽで、全国から注文が殺到した。そんな二人が出会ったのは昭和30年台のはじめのことだった。出会いのきっかけを作ったのは、本田さんの方だったという。ものづくりに熱中していた二人はすっかり意気投合したという。
世の中の人に喜んでもらえるものをつくりたい、人がやらない新しいことをやってみたいと技術への情熱は二人を激流のように突き動かしたという。本田さんは本格的なオートバイの生産に乗り出し、挑戦したのは箱根の山越え。そのためにとんでもなく高い機械を買い、当時の資本金は600万円のところ買った値段は4億5000万円だった。井深さんは常識的じゃないが山勘で買っているわけではないと話した。自分だけでなく日本も幸せにしないといけないという思いからこの値段で購入し、自社が潰れても国にそれだけのお金が残れば、日本に貢献したんだと思えると本田さんは話したという。本田さんはジュノウ号で劣勢を一気に覆そうとしたが、売れなかった。そこで本田さんはイギリスマン島のレースで優勝を果たすと宣言。実際に見ると、スピードも桁違いでうちのオートバイでは、叶わないと思ったという。
がっかりしたのも束の間本田さんはエンジンの回転数を3000回転から1万回転にあげようとした。ヨーロッパを周り、有り金をはたいて部品を買いまわったという。そのかいもあってか優勝宣言から7年後、世界で初めて全クラス優勝を果たした。同じころ井深さんはトランジスタの大量生産に成功していた。
オートバイで成功した本田さんは自動車の生産に乗り出そうとしていた。ところが通産省から待ったの声がかかった。貿易の自由化に対抗するには大メーカーを中心に合併して、国際競争力をつけるのが先だとの声に本田さんは真っ向から噛み付いたという。本田さんは車の色でも役所とやりあい、消防車の赤と白バイの白を使うことは禁止されていたが、国が色を独占するのはおかしいと役所に伝えたという。評論家はソニーは大企業が大量生産を始める前のモルモットだと書いていた。これに憤りを感じた社員は井深さんに金のモルモットをプレゼント。さらに本田さんの方が怒っていたという。金のモルモットは井深さんのお気に入りとなり、定年退職の写真撮影に使われているという。昭和42年に発表されたN360は爆発的な人気を呼んだが、この車に事故が続発し、企業責任が問われ本田さんは告訴された。検察官立ち会いのもと行われた走行試験は、厳しい批判の目に晒された。1年後本田さんは不起訴になり疑いは晴れた。昭和47年には、CVCCエンジンを取り入れ、これに関し、井深さんは日本に大きな刺激を与えたと話している。
本田さんは社員一人一人が個性を発揮することこそものづくりの原点だと自らも現場で油に紛れていたという。井深さんは本田さんを将棋でいうととんでもなくでかい歩だと話した。自動車レースの最高峰であるF1では本田さんが初めて優勝したときの車を再現する作業が進められていた。昭和40年に優勝したエンジンの音は本田サウンドといわれている。
昭和48年本田さんは突然の社長引退宣言で世の中を驚かせた。若手との意見を食い違いだったという。本田さんを説得できなかった社員は失踪事件を起こしてしまったという。この出来事は本田さんを大きく揺さぶったという。次期社長に45歳の若手を任命して、身を引いた。引退してから10年後の記念式典では2代目社長が51歳の技術者を社長に任命して引退した。新社長になったのは本田さんと対立して失踪事件を起こした技術者だった。
F1人気選手のアイルトン・セナ選手も本田さんのエンジンに魅せられたうちの一人だった。アメリカデトロイトにある車の殿堂には世界の自動車王の中に本田宗一郎が日本で唯一人殿堂入りしている。殿堂の入り口にあるサイン帳には本田宗一郎さんの文字があり、夫人を連れて訪れていたことがわかった。
井深さんが最後に本田さんに会ったのは5月の末だった。その後1通の手紙が届き、それは毎年行っている鮎釣りパーティー中止の知らせだった。この便りから2ヶ月後本田宗一郎さんは息を引き取った。本田さんのスケッチブックには名もない草花や富士山が描かれていたという。最後には人生を楽しませてくれてありがとうというメッセージが残されていた。
ここまで、1991年放送「NHKスペシャル 我が友 本田宗一郎 ~井深大が語る“技術と格闘した男”~」を再放送。本田は創業時から「世界を目指す」と宣言していた。開発したCVCCエンジンはアメリカの厳しい排気ガス基準に適応するためのもの。米国の自動車会社たちは開発を諦め政治力で解決を図ったが、ホンダなど日本企業は愚直に研究し実現させた。同じく世界一を目指したスタジオゲストの栗山は「若い人たちの能力を引き出すために『世界一』という言葉を使った」「負荷をかけるとプラスに働く」と語る。栗山が思う優れた経営者の共通点は「絶対的なこだわり」「誰かに喜んでもらいたいという大根本」。
いま変革期にある日本の自動車産業。それでも憧れを持ってものづくりの門をたたく若者たちがいる。本田宗一郎が設立した学校では現在1200人が整備・設計などを学んでいる。学生が技術スタッフを務めた海外レースでは途中故障にあいながらも完走に導いた。目標を「世界」に定めた本田さんの思いは受け継がれている。
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