- 出演者
- 渡邊佐和子 佐藤二朗 河合敦
オープニング映像。
聖徳太子は廐戸皇子、廐戸王などとも呼ばれている。昨年、「今こそ日本に必要な偉人ランキング」で1位にランクインしていて、「一人ひとりの考え方に耳を傾けて欲しい」、「人権について一般庶民に説いて」といった意見があがった。
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- 聖徳太子
世界遺産の法隆寺が聖徳太子によって創建され、東大門北東側は聖徳太子の生前につくられた区画にあたる。西側は聖徳太子の没後につくられたといい、五重塔、金堂も含まれる。なお、聖徳太子が拠点とした斑鳩の地は都があった飛鳥から20kmも離れていた。
大和川は都の飛鳥と海を結んでいて、聖徳太子は川に沿って玄関口に四天王寺、都との中継地点だった斑鳩に法隆寺を建立した。外国からやってきた人に仏教的建造物を見せることで、文化的な先進国だとアピールする狙いがあったという。
西暦600年、倭国は隋に使節団を派遣し、先進的な文化を取り入れようとした。だが、初代皇帝の文帝は倭国の政治体制を批判し、遣隋使は成果をあげることができなかった。そんな文帝は仏教を深く帰依し、聖徳太子は経典を研究し、推古天皇に講義したという。役人が守るべき規範として、憲法十七条も定めたとされる。
2世紀から19世紀まで書かれた膨大な経典、仏教文献など、1億5000万字がデータベース化されている。「憲法十七条」の第一条の原文でみられる「無忤」をキーワードにして調べると、隋に近い時代の仏教文献のなかで多く使われていた用語だとわかった。また、在家信者のために書かれた経典「優婆塞戒経」も参考にしていたといい、研究員の木村整民氏は仏教を帰依していた隋の皇帝も在家信者といえると語った。
河合敦氏は仏教は思想だけでなく、高い建築技術、仏像に関わる鋳造や彫刻技術も求められ、最先端のテクノロジーを倭国は導入しようとしていたなどと説明。聖徳太子は仏教を研究し、法華経の注釈書「三経義疏」を記した。また、聖徳太子の呼び方に豊聡耳命があり、知性が良いことは隠さずに人々に知らしめていたという。
聖徳太子が建立した法隆寺は670年、火事で焼失した。現在の西院伽藍は8世紀初頭までの再建されたもので、現存する世界最古の木造建築でもある。五重塔は震度6以上の地震に3回は見舞われているが、今もその姿を残している。大須賀廣美氏は五重塔の修理工事報告書をもとに構造を忠実に再現し、サイズは実物の1/3だという。揺れの際、各層がズレて動くことで倒壊を防いでいる。一方、金堂では屋根を支えるための補強材があり、龍や獅子が施された補強材は江戸時代のもの。天井裏には多くの木材が張り巡らされ、補強されている。
聖徳太子が暮らした宮殿の跡地には夢殿が築かれ、国宝に指定されている観音菩薩立像が安置された。等身大の聖徳太子を模した像とされる。夢殿の建立に尽力したのが光明皇后だった。女性皇族や貴族たちが聖徳太子を厚く崇拝したのは、女性の成仏を説いた法華経を重んじていたことも影響している。
大阪の四天王寺では聖徳太子の月命日である毎月22日、一般参加者向けに聖徳太子の伝説を伝えている。過去には文字が読めない庶民にも伝わったという。また、浄土真宗の開祖、親鸞は聖徳太子を「日本の釈迦」と称えた。
聖徳太子はお札の顔としても有名で、最初にお札になったのは1930年に発行された百円札。紙幣研究家の植村峻氏は「混迷する経済情勢を解決するうえで役に立つかなと推測される」と話す。戦後、50年に千円札、57年に五千円札、翌年には一万円札が発行された。
聖徳太子が描かれた千円札、五千円札、一万円札が用意され、河合敦氏は「五千円がいちばんイケメンですね」と語った。戦後、日本はGHQに占領されたなか、ときの日銀総裁は十七条憲法を引用し、聖徳太子は平和主義者と言い続けたことでお札の顔として採用され続けたという。佐藤二朗は聖徳太子の功績を挙げるだけ挙げ、「文句なしのスーパーヒーロー」などと称えた。
「歴史探偵」の次回予告。