- 出演者
- 渡邊佐和子 佐藤二朗 河合敦
今回、戦国時代において関東の覇者に上り詰めた北条氏を特集する。
- キーワード
- 小田原城
オープニング映像。
佐藤二朗は「鎌倉殿の13人」で描かれた北条氏には馴染みがあるが、戦国時代の北条氏には詳しくなく、番組を通して知りたいという。初代である北条早雲は伊豆を治めていたが、100年をかけて領地を拡大していった。
神奈川・小田原市の小田原城では三方が巨大な池で囲われ、武田信玄、上杉謙信すら苦戦を強いられ、本丸まで到達することはできなかった。残る一方には人工的に溝を掘り、敵の侵入を防いでいた。また、関東特有の地層「関東ローム層」により、粘土質で滑りやすいのが特徴。5代目の北条氏直は堀、土塁で城下町ごと城を囲い、南側には海、東側には湿地帯が広がっていたとされる。北条氏は土地の特性を巧みに活かし、創意工夫を積み重ねていた。
文献によると、北条氏政は土塁をつくる際に職人の作業レベルの均一化を指示していたといい、佐藤二朗は「熟練の現場監督」と評した。河合敦氏は北条氏の統治を高く評価し、領民は財産と命が守られていると保証されているので、築城に積極的に協力していたという。そんな北条氏は他国から関東へと来たため、それまでいた勢力は反北条のもと、団結することとなった。
2代目の北条氏綱は宿敵を撃ち倒し、戦乱で焼失していた鶴岡八幡宮の再建工事に注力した。八幡宮の守護者は関東の支配者の資格を有するという意味があったという。懸念材料は木材の確保で、氏綱は房総半島で起きていた大名家の家督争いに介入。一方の勢力に援軍を送り、勝利に導いた。返礼として木材の確保に成功する。さらに奈良から瓦職人を招聘してみせた。父にして初代の北条早雲は室町幕府の中枢で働いていて、京都の武家や公家と人脈を築いていたという。息子の氏綱は公家の頂点である関白にまで上り詰めた近衛尚通の義理の息子にあたる。そして、鶴岡八幡宮の再建に成功し、氏綱は関東を支配する資格を備えた人物と評された。
北条早雲は京都のエリート武士で、伊勢盛時という名前だった。2代目の氏綱の頃、名字を改めたという。鎌倉時代の北条氏にちなんだとされ、幕府に認可を得ていたという。佐藤二朗は「関東という新天地で生きていくという、北条氏の不退転の決意を感じる」と語った。1590年、北条氏が豊臣秀吉に敗れ、関東に居座ったのが徳川家康だった。
北条氏は現在の幸手市に堤防、人工の河川をつくっていたといい、流路を変えていた。しばらく流れると一級河川の中川、利根川に合流することになる。北条氏は水運を活用し、兵士や軍事物資を運搬していた。時代が江戸に入ると、人口が膨れ上がり、食糧問題の解決のため、東北から米が運ばれるようになる。房総沖は難所だったため、北条氏が築いた水系が利用された。谷口榮氏は「(北条氏の時代の)礎の上に徳川家康が江戸を開発していく」などと説明した。
河合敦氏によると、関東一円を支配していた北条氏だからこそ、巨大な土木工事が可能だったといい、江戸城の外堀も小田原城の総構から影響を受けているといわれると説明した。そして、北条氏は100年の間、一度も内乱、家督争いが起きなかったといい、戦国大名のなかでは珍しいという。
「歴史探偵」の次回予告。