- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
オープニング映像。
立花家資料館に展示されている立花宗茂の甲冑を計測すると、身長は180cmと推定できるという。兜は約4kg超で、細川忠興、黒田長政の兜ですら2kgに満たない。また、居城は急峻な地形の上に建てられ、柵や塀で囲まれた建物があった「曲輪」は70~80も発見されている。他の山城だと、曲輪は片手で数える程度。曲輪に弓、鉄砲部隊を配置することで、鉄壁の要塞を誇った。立花宗茂が18歳の時、兵力差8倍の軍勢が立花城を包囲した。宗茂は籠城戦ではなく奇襲を仕掛け、敵軍を撃退した。そして、味方の兵士には金色の兜を着けさせ、戦場のどこにいるか素早く把握し、迅速な指揮が可能だったと考えられるという。
1586年、島津軍が立花城を襲撃すると、立花宗茂は重臣を遣わして降伏した。あくまで時間稼ぎのためで、豊臣の援軍が到着すると、島津軍は撤退を余儀なくされた。豊臣秀吉は約10万石の領地を与え、宗茂は大名に取り立てられた。
立花宗茂の義父である道雪は知略に優れ、武田信玄に「一度、会ってみたい」と言わしめたほどだった。道雪の娘で、宗茂の妻であるぎん千代は薙刀、鉄砲術など武勇を誇ったという。おまけに立花宗茂の軍勢はスピーディーな銃撃戦が可能だったとされる。
日本前装銃射撃連盟は火縄銃の実演、研究を行っている。1発分の火薬、弾をあらかじめ仕込んだ「早合」を立花宗茂の鉄砲隊は導入していたといい、短時間での銃撃が可能だった。実証実験を行うと、早合があると5分で9発を撃つことができたが、早合がなければ5発にとどまった。立花宗茂は商人を通じて南蛮貿易を行い、ポルトガルなどの品々を入手していた。ヨーロッパではペーパーカートリッジという早合に似た道具が使われ、海外との交易でもたらされたと考えられる。関ヶ原の戦いで宗茂は西軍として参戦し、早合を用いた鉄砲術、大砲を城攻めに使ったという。
河合敦氏によると、立花宗茂が大砲を城攻めに用いたのは先進的だったといい、15年後、大阪の陣で徳川軍が豊臣方へ大砲を撃ち込んでいる。宗茂の主君だった大友宗麟は貿易を通して海外の文化、武器を取り入れていて、宗茂も踏襲したといえるという。関ヶ原の戦いで宗茂は敵軍に勝利を収めるも、西軍は敗着。宗茂は領地没収となり、生活苦に陥ったものの大名として返り咲くこととなった。
関ヶ原の戦いで西軍は敗北し、立花宗茂は改易を言い渡された。京都の大慈院で打ち込んだのは茶の湯で、千利休から教えを受けた細川忠興に認められるレベルまで究めたという。茶の湯の歴史に詳しい岡宏憲氏は「再就職活動中に資格を取得し、再就職を有利に進めるイメージ」と話す。宗茂は連歌、蹴鞠など芸事に邁進した。その後、二代将軍の秀忠の旗本に取り立てられ、大阪の陣では戦場での豊富な経験を披瀝した。そして、将軍に助言をする役職「御咄衆」にも起用され、宗茂は幕府の公式記録である徳川実紀に「12人の御咄衆の中で最も優れている」などと記載されている。最終的に宗茂は柳川の大名として復帰を果たした。
立花宗茂は徳川秀忠、家光に仕えたが、殊に家光は宗茂を厚遇したという。島原の乱でも頼りにされ、「幕府軍の加勢に行くように」と命じられた。72歳と老年ながら、活躍したという。河合敦氏は番組で藤堂高虎をぜひとも取り上げて貰いたいといい、「城名人として有名」と語った。
歴史探偵の次回予告。