- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
今回は「白川郷・五箇山の合掌造り集落」の歴史にスポットを当てる。
- キーワード
- 白川郷・五箇山の合掌造り集落
オープニング映像。
合掌造り集落は岐阜県の白川郷、富山県の五箇山にある。三角屋根を調査すると、白川郷と日本史に深いかかわりが見えてくるという。
レーザー測量によって合掌造りの三角屋根を調査すると、合掌材の根本は梁のくぼみに置かれているだけ。強風の際、合掌材が動くことで屋根にかかる力を分散しているという。さらに強度を保つ対策も施されていた。加えて、屋根裏の空間を利用し、養蚕も行っていた。江戸時代、生糸の需要が高まったが、海外からの輸入に依存し、貨幣が流出してしまう。幕府は生糸の国産化を志向し、白川郷で作られた生糸は本願寺に運ばれた。絹文化を研究する富澤輝実子さんは僧侶らは西陣織などを着用していたため、それだけ上質な生糸だったと分析する。
幕府の号令で生糸の国産化が目指され、各地で養蚕が盛んになった。幕末、欧米へと流出し、明治の末には世界最大の生糸の輸出国となったという。
天正地震で白川郷の帰雲城は姿を消し、溜め込まれた金も行方知らずとなった。白川郷の金を調べる広瀬義朗氏によると、砂金が採れたとされる他、名古屋城の金の鯱にも金が使われていたという。だが、史料が乏しく、名古屋城では鯱に使われた金の成分分析など、科学調査の計画が進んでいる。
河合敦氏によると、徳川家康に名古屋での築城を進言した家臣は白川郷の内ヶ島氏に仕えていた。内ヶ島氏は帰雲城の城主でもあった。佐藤二朗は名古屋城の金の鯱に白川郷の金が使われていたという仮定を考え、「もし、事実なら江戸時代を支えまくっている」と語った。
五箇山の歴史、文化に精通する大瀬雅和氏は土に注目し、江戸時代の科学技術に通暁する野澤直美氏は3日をかけて硝酸カリウムを作った。養蚕で出る蚕糞にヨモギ、藁を混ぜるとできるといい、五箇山では量産化に成功していたという。織田信長と本願寺が激闘を繰り広げた石山合戦では上述した硝酸カリウムが本願寺に運ばれ、信長は厳しい戦いを余儀なくされた。その後、信長は大量の鉄砲を用意し、戦国最強と謳われた武田の騎馬隊を打ち破った。
戦国時代、硝酸カリウムは鉄砲に用いられたが、江戸時代に入ると自ずと需要は減ると考えられる。だが、加賀藩は購入を継続していて、外様大名ということもあり幕府にも睨まれていたことから、一戦を構えることを想定していたのかもしれないという。幕末、ペリーが来航すると、6日後には硝酸カリウムの価値が8倍にまで暴騰。河合氏によると、五箇山では増産に次ぐ増産だったという。
「歴史探偵」の次回予告。