- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 小関悠一郎
24年の日本人出生数は初めて70万人を割る見込みと報じられた。遡ること江戸時代中期、経済停滞に飢饉などが重なり、東日本では人口が著しく減少していた。この窮地を建て直すべく、斬新な政策を打ち出した上杉鷹山にスポットを当てる。
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- 上杉鷹山
オープニング映像。
上杉謙信の跡を継いだ、景勝は会津で120万石を統治した。だが、関ヶ原の戦いで西軍につき、領地を減らされて米沢30万石に。加えて、3代目藩主が急逝し、15万石にまで減ってしまった。年貢の収入、人口減少などに苛まれ、財政難に陥ることになる。
米沢藩は会津120万石時代の家臣を減らさず、15万石の領地に5000~6000人がいたという。だが、出費が重なり、商人から借金を重ねるも信用を失っていく。厳しい年貢に悲観し、逃げ出す農民も続出。17世紀末、藩内の人口は13万人にのぼったが、1760年には10万人を下回った。さらに当時、生まれた女児は労働力にならないと間引きが横行し、人口減少に拍車をかけた。
上杉鷹山は17歳で米沢藩藩主となり、再興を掲げた。自ら率先して倹約に努め、家臣にも命じた。また、家臣の竹俣当綱は植樹計画を立案。実が蝋の原料となる漆は高値で取引されていたが、樹液のほうで目先の利益を得ようとする民草が続出した。さらに、冷夏続きで天明の飢饉が発生し、増加していた人口は激減に転じてしまうのだった。
小関悠一郎教授によると、年貢は個人ではなく村で納めていた。村民が減ったから、年貢も軽減されるというわけではなく、かえって負担は増すことに。そんな危機的状況のなか、上杉鷹山が藩主に就任。志と再興計画は優れていたが、成功には至らず、35歳で藩主を退くことになる。
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農村に派遣された武士は郷村出役と呼ばれ、藩と農民の調整にあたった。上杉鷹山に抜擢された莅戸善政は子供5人以上がいる家庭に大人1人分の生活費を支給したり、地域福祉を手厚くした。また、農民や武士に養蚕を普及させ、従来は働き手とみなされなかった武士の妻らにも新産業の担い手となった。 鷹山の治世下では藩内の人口が回復し、領民の生活の安定が窺えるという。1822年、上杉鷹山は72歳の生涯を閉じた。
郷村出役は派遣先の実情を報告することで、米沢藩は各地に適した政策を打ち出した。さらに産業振興を目指し、上杉鷹山は率先垂範して養蚕に取り組んでいったという。
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米沢藩において、鯉は米沢牛と肩を並べるほどの名物だったといい、内陸部での貴重なタンパク源となった。また、天明の飢饉に翻弄された上杉鷹山は江戸から本草学者を招き、山菜・野草の食べ方、鳥獣肉の保存法などを詳述したサバイバル書を制作。1500部以上を印刷し、領内に配布した。例えばビタミンなどの栄養が豊富なすべりひゆはおひたしにしたり、保存食としても活用されてきた。鷹山の没後、全国で20万人以上が亡くなったとされる天保の飢饉がおきる。米沢藩では天明の飢饉と比べ、犠牲者を抑えられた。
スタジオにはセリ科の山菜であるシャクを混ぜ込んだごはんが用意され、佐藤二朗が試食。鷹山が遺した「かてもの」には余裕のある時から、万が一の備えをしておくことと記されている。小関悠一郎教授は「上杉鷹山が目指したのは富国安民で、民が安定し、安心した生活ができるようにすること。そのために国を富ませなければいけないという考え方」と説明した。
「歴史探偵」の次回予告。