- 出演者
- 石原良純 小木逸平 小泉孝太郎 安藤萌々
オープニング映像と挨拶。
トランプ大統領はイランとの交渉をギャンブルに例えた。
「火曜の良純孝太郎」の番組宣伝。
暗渠研究家の本田さんと船で東京湾から渋谷川を遡る。河口~天現寺橋が古川、その先渋谷ストリーム付近までが渋谷川となる。2つの川全長約10kmを源流まで辿る。浜崎橋ジャンクションは港区の環状線と羽田線が接続し渋滞が多い。東京モノレールは1964年東京オリンピックの際に開業した交通機関。路線高架橋を過ぎると、船宿屋がある。元々この辺の船宿は江戸時代は江戸城に魚を献上していた漁師が明治になり営むようになった。1964年の東京五輪に向け、買収が伴わない河川上に高速道路を整備。日本橋区間は、2035年度に地下トンネルに集約。2040年度には都心環状線の全撤去が計画され、河川上に青空が戻るという。金杉橋から都電金杉線があったが、1967年に廃止。良純は「都電の思い出ろくなものじゃない」などと話した。金杉線は、日本橋から通る旧東海道の通り道。明治7年に都内初のガス灯が灯った通り。大門には、当時のガス灯を再現したレプリカが灯る。桜川は約20ある古川の支流の1つ。昔は増上寺の横を流れていた。昭和の始めに暗渠になり、今は水が流れてこないという。渋谷川には20~30の支流があり、一番下流の支流が桜川。渋谷に流れる宇田川の支流の河骨川は、唱歌「春の小川」のモデルと言われている。海水と川の水が混ざる汽水で濁っている。赤羽橋の赤羽は、「赤い埴」がもともとの語源。土器や埴輪を作るような良質な赤い粘土が取れる場所だったという。北区・赤羽も同じ由来。芝公園の中にも古墳がある。昭和初期に護岸工事を行い、今も現役で残ってるところもある。麻布周辺は江戸時代初期まで沼地だった。
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渋谷川をボートで渡り源流を探す。一之橋からは1日約400トン湧き出る水を放水することで川を浄化している。一之橋公園は1953年に開園し、2023年にリニューアルした。昭和初期頃は湧き水を使用した銭湯が営業していた。麻布十番は江戸時代初期、水運拡充のため河川拡張工事が行われた。名前の由来は割り当てられた工区が10番目だったことからで、工事区域の目印の杭が後々まで残っていたという。
渋谷川をボートで渡り源流を探す。二之橋まで進み、ボートが川底に当たってしまった。
一行は、渋谷川をボートで遡上。水深が浅くなり、ボートを乗り捨て、歩いて川を登ることに。道中には、慶應義塾綱町グラウンドがある。石原は、小学生のころ、三之橋から川を眺めていたが、ドブネズミがいて、臭かった、当時に比べると、きれいになったなどと話した。魚も泳いでいた。古川橋に到着。並行している明治通りは、別名・環状5号線。環七や環八よりも先に完成した。名前の由来は、最初に整備が行われた範囲が明治神宮の近くだった説が有力。水深が深くなる所もあり、浅い所に全員で避難した。小泉は、スタッフを先導しながら進んだ。
渋谷川をボートで渡り源流を探す。二之橋まで進み、ボートが川底に当たってしまった。
オープニング映像が流れた。
静岡市葵区は南北に長く伸びた地域で、北の山間部は山梨県と長野県に接している。南の平野部に県庁やJRの静岡駅など市街地が固まっている。内野悦子さんは、茶を栽培し野菜も生産。夫の忠一さんと一緒に育てている。月に2度、地域で取り組んでいる自宅の縁側での外来客のもてなしを14年前から行っている。静岡市の市街地から北へ車で1時間の山村で、茶を栽培している農家が揃って毎月第2と第4の日曜日に開き、40人から50人が訪れる。作った野菜や手作りの菓子、ジャムなどを出している。
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一行は、渋谷川をボートで遡上。水深が浅くなり、ボートを乗り捨て、歩いて川を登ることに。道中には、慶應義塾綱町グラウンドがある。石原は、小学生のころ、三之橋から川を眺めていたが、ドブネズミがいて、臭かった、当時に比べると、きれいになったなどと話した。魚も泳いでいた。古川橋に到着。並行している明治通りは、別名・環状5号線。環七や環八よりも先に完成した。名前の由来は、最初に整備が行われた範囲が明治神宮の近くだった説が有力。水深が深くなる所もあり、浅い所に全員で避難した。小泉は、スタッフを先導しながら進んだ。
渋谷川の源流を探すためを全長約10km歩いて遡上する。白金付近でカメラの1つが水没した。良純さんは大雨が降った時に水量を調節する古川地下調節池を発見、工事時に雨水を貯留する3.3kmの地下トンネルとなっている。天現寺橋は明治通りと外苑西通りの交差点にあり古川と渋谷川の境目、150年以上の歴史を持つ日本で最も古い私立小学校の一つで良純さんの母校慶應義塾幼稚舎がある。福澤諭吉の別邸として土地を所有し家を構えていた場所で戦時中には校舎は黒の迷彩模様が施されれいたということ。
渋谷川の源流を見つけるために歩いて遡上する。良純さんの母校にいたおじいさんの先生は「若い頃は古川に飛び込んでアユを手づかみしてた」と話していたという。天現寺橋にある都営住宅ができる前は都電の広尾車庫があった。都電は車・地下鉄が主流になると値上げしたことが廃線理由の一つとなっている。天現寺で古川は終わり、渋谷川になっていく。天現寺橋の歩道橋は都電廃止翌年の昭和45年に完成した。支流のひとつ笄川は昭和の始めに暗きょ化された。渋谷川に入ると藻が出てきた。渋谷川の川底清掃は藻から発生する臭いなどを抑えるために20年以上続けられている。恵比寿橋を左に行くとガーデンプレイスに行く所にあるビール坂は当時大日本麦酒の工場から馬車で出荷する際に使っていた坂だということ。馬車から鉄道に代わりビールの積み下ろし専用駅として恵比寿駅が誕生し後に旅客駅となり、「恵比寿ビール」から取り下渋谷村から恵比寿と名付けられた。洪水対策のために川底が深く掘り下げられており、地下鉄日比谷線のトンネルで湧いた水が渋谷川に流れている。恵比寿駅前だが渋谷橋という名称は下渋谷村からつけられた。渋谷橋を通りすぎると出発点だった渋谷スクランブルスクエアが見えてきた。都営バス 渋谷営業所の敷地には渋谷東二丁目第二アパートが併設、戦後住宅不足問題を解決する絶好の場所とされた。昭和2年に開設した東横線並木橋駅は昭和20年の空襲で全焼、高架線路の一部が当時をしのぶ痕跡として現存する。渋谷川遡上の終盤、再開発以降特に立ち入りが厳格化されたが渋谷川の暗きょ部に特別に入る。ここから国道246号線を横切って進む。暗がりを進むと何かを見つけた。
渋谷駅の地下、暗きょに潜入。中は雨水や染み出した水が流れている程度。改修して10年ほど。カーブしているところは東横線の駅に向かう階段が通っているという。進んでいくとゴムのカーテンがかかっていて行き止まりになっている。大雨が降るとこの暗きょにも溢れてくるということ。この先も暗きょになっていて、そこを辿っていくと渋谷川の本来の源流まで行くことができるという。
渋谷川の暗きょ上を歩く。まずは渋谷川ほとりにあった渋谷のんべい横丁へ。このあたりは道玄坂の闇市が移動して形成したもの。MIYASHITA PARKの4階には空中公園がある。暗きょは明治通りの先の路地に続く。「東京時層地図」は今いる場所に昔の地図を重ねることができるアプリ。
一行は、進学校の渋谷教育学園渋谷中学高等学校を通り過ぎ、鉄骨の橋の土台が残っている道路へ。渋谷川を暗きょにする際、橋桁を残すことで、川に蓋をする労力と材料費を削減。橋桁をそのまま埋め立てたため、道が盛り上がっている。橋桁の下に直角にホースを下げて給水できる消火用吸水孔もある。数々のアパレルショップが立ち並ぶキャットストリートは、1990年代、家賃が安価で個人店が乱立したという。暗きょ化後、整備された公園に野良猫が多く集まり、渋谷学園の生徒が「猫通り」と呼んだのが起源とも言われている。川を暗きょ化した際に蓋をした分だけ路面が隆起し、今も段差となって残っている。一行は、小池精米店を訪れた。1930年創業だという。三代目によると、暗きょ化され、遊歩道から道路になってから栄えたという。それまでは住宅が多かったという。一行は、表参道に到着。「参道橋」と書かれた渋谷川の痕跡があった。石原は、明治通りの向こう側は、オシャレなマンションの走りだった、逆側は、同潤会アパートで公団住宅が立ち並んでいたなどと話した。一行は、「表参道ヒルズ同潤館」前へ。一度は取り壊しになったが、ここだけ復元されたという。小泉の祖父母は、駆け落ちして、ここに住んでいたという。
小泉孝太郎の祖父母は駆け落ちして「表参道ヒルズ 同潤館」に住んでいたそう。このあたりは昔は住宅地で、あちこちに銭湯があった。とんかつまい泉青山本店は銭湯「神宮湯」だった場所を客席に改装して営業している。渋谷川は竹下通りを超えたところで2股になる。ここには昔水車があり、安定して回すべく水路を2つに分けて水を溜め、水車に水を落としていたのだという。この水車は江戸時代からあり、葛飾北斎「冨嶽三十六景 穏田の水車」に描かれたものではないかと言われている。水車は精米や銅線などを加工する動力として使われていたという。明治時代の最盛期には渋谷川流域で約50機の水車が稼働したいたということ。渋谷川は原宿の裏通りを抜け、外苑西通りへ。通りに沿って左に曲がる。その先には国立競技場が。
渋谷川はなくなってしまったが、国立競技場を立て直す時に川の記憶を留めた施設を建設を作ろうとなり、せせらぎを作った。この真下くらいに渋谷川があったということ。渋谷川の源流がある場所は新宿御苑の中にある下の池。
