- 出演者
- 石原良純 小泉孝太郎
東京高速道路(通称:KK線、会社線)は1959年に開通し、京橋~新橋までの全長2kmの高速道路で、昨年4月に廃止になった。オープニングは廃止になったKK線の上からスタートする。KK線は道路の下にあるテナントの賃貸料金で運営していたため、通行料は無料だった。今後KK線は、遊歩道として生まれ変わる。今回のテーマは銀座で、銀座四丁目と五丁目以外、一番地が無い。銀座一丁目一番地が消えた謎に迫る。
銀座は幕府御用達の日用品・武具などを製作する、最新技術の発信地で職人たちの街だった。活版印刷とは、文字や図案を立体的に彫刻した金属の版を使い印刷する技術で、出版物はほぼ全て活版印刷で製造されていた。明治時代、100を超える新聞社が銀座にあった。その需要に応えるため、銀座には多くの活版屋さんがあったが、新聞社の減少や印刷技術の発展により、需要が激減した。銀座では中村活字一軒のみとなった。
銀座に丁目の今では希少な活版印刷を取材。全国からお客が来る人気商品が名刺。石原伸晃は「ありとあらゆる名刺を作った。活版印刷だけはやった事ない」と言っていたそう。人気の理由はマージナルゾーンにより読みやすいこと。中村活字で名刺を作ると仕事がうまくいく幸運の名刺としてSNSでも話題になっている。活版印刷には英語26種類、日本語3000種類以上が使用され、使用する活字を集める工程を活字拾いと呼ばれる。使わなくなった活字は溶かして再利用する。新聞の誌面を作るためには活字の文字を揃える。新聞一面に使用される活字は約1万2000字。活字を作る機械は動かなくなり、現在残っている活字がなくなれば中村活字も辞めざるを得ないそう。2人も名刺を作ってもらった。文字選びの後、レイアウト作りを行う。
東京国際フォーラムがある場所は1991年まで東京都庁があり、有楽町・銀座界隈は行政の中心地だった。銀座二丁目には、都庁や新聞社で働く人のため古くから営業している飲食店がある。
銀座二丁目の名店、大衆割烹 三州屋を訪れた。早くて美味くて安いと三拍子揃ったサービスで長年愛され続けた。創業から57年を迎える。2人は「とり豆腐定食」をいただいた。店主の岡田孝さんは現役のプロレスラー。
「銀座の恋の物語」という銀座の並木通りが舞台の映画の話題になり、石原さんは「日活には並木通りのオープンセットがあった」などと話した。
銀座三丁目へ。銀座三丁目はデパートを中心とした華やかなショッピング街となっている。銀座の象徴とも言えるのが百貨店、銀座初の百貨店は1924年に建てられた松坂屋。制服の完全洋装化など全てここ松坂屋が先駆けだと言われているそう。その後、松屋銀座や銀座三越などがオープンした。銀座中央通りには、かつて走っていた路面電車で使われていた敷石が歩道に使用されている。64年間、銀座の交通手段として都電銀座線は走り続けた。
64年間銀座の交通手段として走り続けた都電銀座線の最後の運転の貴重映像が残されていた。銀座線はアジア初の地下鉄。銀座線は上から穴を掘って蓋をする開削工法で出来た。そんな古い工法で作られた銀座線には今は使われていない、幻の駅がある。その場所があるのが渋谷駅から浅草駅の銀座線に乗り、一番前から見える場所。今回その幻の駅を見せてもらった。ホームには「新橋駅 幻のホーム」とある。新橋駅には東京地下鉄道と東京高速鉄道の2つの会社の駅があり、8か月間使っていたが、相互直通運転が開始したため駅が1つになり、こちらは使われなくなったのだという。
当時はガスで点火していたというガス灯通り。全体で85基のガス灯が設置されていた。ガス灯の明るさはろうそくの1.5倍と言われ、夜を余暇に使うなど人々の生活を大きく変えた。「点消方」という専門の係もいたという。
銀座四丁目へ。中でも象徴的なのが2022年まで和光本館と呼ばれていた「SEIKO HOUSE」。1894年に服部時計店の創業者である服部金太郎が四丁目交差点にあった朝野新聞社屋を買取り初代時計塔を竣工し、1932年に二代目となる時計塔ができた。2人は時計塔の普段は入れないエリアへ。時計塔は4面に時計を設置している。二代目時計塔は火災や震災を考慮し、建物の外壁はすべて天然石で作られ、戦時中も激しい戦火をくぐり抜けてきた。GINZA PLACEがあった場所には、関東大震災前には「カフェー・ライオン」があった。カフェが日本で本格的に広まったのは銀座だったという。カフェー・ライオンは現在のウェイターにあたる女性が接客をしてくれるカフェとして人気になった。「カフェー・プランタン」は日本初の会員制カフェで、「銀座カフェーパウリスタ」はブラジルコーヒーを広めたと言われている。マクドナルド1号店は1971年に銀座三越にオープンした。
銀座・五丁目交差点は、銀座の中でも特に世界的なハイブランドが立ち並ぶ。また五丁目~八丁目は、関東大震災による政府の区画整理により、昭和5年以降に銀座に加わった。また銀座は西洋文化の玄関口で、1895年創業「煉瓦亭」は日本で最初の洋食店といわれ、オムライスやエビフライなど様々なメニューを生み出した。1925年創業「三笠会館」は格式を感じながらも気楽に利用できる点が人気で「銀座並木通りの社交場」がコンセプト。また昭和7年に飲食店として初めて「鶏の唐揚げ」を提供。「骨付き鶏の唐揚げ」の食べ方は手で持ってかぶりつき、創業100周年のリニューアルで大きくなったということ。
鶏の唐揚げを日本で初めて提供したレストラン三笠会館。国民的人気のスイーツ・ティラミスを日本に広めたお店の1つとも言われている。銀座で初出店する企業は多く、「スターバックスコーヒー 日本1号店」も「Apple 日本1号店」も銀座。
土日祝日に銀座中央通りで実施される歩行者天国。その始まりは1970年。高度経済成長の頃自動車が急増したことで事故が多発。さらには排気ガスも社会問題となり当時の美濃部都知事が提唱。銀座のほか、新宿、池袋、浅草で同じ日にスタートし、銀座では23万人の歩行者が詰めかけた。銀座中央通りでもう一つ忘れてはならないのが、夜のパレード。新たな銀座をアピールしたいと百貨店や企業が協力、夜の銀座を彩った。
タイガーウッズと用具契約をしているゴルフブランド「テーラーメイド」へ。元々西洋で盛んだった社交的なスポーツ・ゴルフ。西洋文化が色濃く、政財界の社交場だった銀座でも1930年という早い時期に、松屋銀座の屋上にゴルフ練習場が作られた。
続いて向かったのは銀座七丁目。このエリアは戦時中の空襲被害がほかより少なかったため、終戦後すぐに飲食店や商店が立ち並び商業エリアとして発展。さらに、表通りから少し中に入ればクラブやバーが立ち並び、入り組んだ細い路地の中には知られざる名店が佇んでいたりと、まるで迷宮に入り込んだかのようなディープスポット。このあたりは江戸時代には町人たちが暮らす長屋がひしめき、明治から戦前にかけその跡地に次々と店舗が立ち並んだ。空襲被害が少なかったこのエリアは残っている建物を活用しながら、その間にビルを建てていったため狭い路地がいたるところにある。豊岩稲荷神社は1600年頃に明智光秀の家臣だった安田作兵衛がこの地に神様を祀ったことが始まりで、江戸時代町人が多かった銀座では商売繁盛の神様として人気に。戦後次々とビルが建てられたが古くからご利益のあったこの稲荷はその開発を逃れ、全国から参拝者が訪れる、知る人ぞ知る縁結びの開運スポット。
オープニング映像。
大阪府門真市は大阪市の北東部にあり、大手電気メーカーの企業城下町と言われ、東西と南北に電車や幹線道路が走っている。中村真実さんは納屋を改装したカフェを経営し、1日20食ほどの料理を提供しながら弁当も作っている。週6日幸福時間がある。それがドライフラワー。客の出入りがない時に店で1時間ほどで作る。2週間ほど干しておいた植物を使う。2年半程前に街で見たスモークツリーの印象が強く残り、半年後、店のシャンデリアに飾り付けてみた。ドライフラワーをきっかけに様々な植物も育てている。店に飾るだけでなく、友達にもあげている。
明日の予告が流れた。
銀座七丁目の路地裏にひっそりと社を構える豊岩稲荷神社。神社から約30m進むと社務所が。元々、神社周辺は更地だったが、ビルが建てられ規模が縮小。地上のお賽銭は地下の社務所へ。また、帰国前の外国人観光客が日本の硬貨を全て賽銭することもあるという。冬になると参拝者がマフラーや前掛けを着けてくれる。
