- 出演者
- 田中裕二(爆笑問題) 太田光(爆笑問題) 阿川佐和子 星野真里 高橋英樹 菊川怜 河合敦 ビビる大木 松島龍戒 磯田道史 村山輝星 浮所飛貴(ACEes)
農民出身の豊臣秀吉は10代で故郷の村を飛び出し織田信長に仕えた。秀吉の生い立ちを記した太閤素生記によると、継父との折り合いが悪かった。歴史学者・磯田道史先生によると秀吉は右手の指が6本ある多指症だったという。こうして村を出た秀吉は18歳頃に織田信長と出会い、雑用係として織田家に就職。秀吉が信長に認められたきっかけは信長の趣味である鷹狩のサポートだった。問題「鷹狩の際、秀吉が持ち歩いた信長の着用品とは?」。
問題「鷹狩の際、秀吉が持ち歩いた信長の着用品とは?」、正解は「わら沓」。秀吉は信長の鷹狩の際にわら沓を肌見離さずぴったり付き添った。秀吉が信長に士官できた理由は、村での居心地の悪さがきっかけでわら沓を用意して気を引いた。
オープニング映像。
画家・小林正直さんの幸福時間は小説の執筆。自分で見た夢を元にして内容を考える。文章は苦手だったが絵本を作りたくて17年前にブログを書いてみたところ長い文も書けるようになった。書いた作品は時に友達に読んでもらう。
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京都・高台寺は1606年、ねねが秀吉を弔うために建立。生前にねねが建てた霊屋は秀吉とねねが祀られている。ねねは生前、秀吉の隣で眠ることを望み亡くなった後、地下約2mに埋葬された。ねねが霊屋をつくったのは二人の場所を永遠に守りたいという思いがあったと思われる。
秀吉の坐像の前扉はねねが愛用していた御所車の扉を移設した可能性がある。天井の木材は秀吉の船の木材を再利用したという説もある。ねねが正室でいられた理由は家臣団の結束に大きく関係している。秀吉は家臣団をつくるため少年を集めてねねに育てさせた。ねねが正室でいられた理由は、秀吉との強い絆と優秀な家臣を育てたから。
7つの謎を1つ解くごとにキーワードとなる文字が判明する。豊臣秀吉の天下獲りに大きく関係しているのは弟・豊臣秀長。戦国時代にありながら秀吉と秀長は生涯仲が良かったという。全ての謎を解くと兄弟の秘密が明らかになる。ここまでに見つかったキーワードは「お◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯た」。
織田信長は斎藤龍興と争い1561年から約6年間を要した長期戦だった。豊臣秀吉は敵地に一晩で城を築き見事攻略へのきっかけを作ったという。しかしこの墨俣一夜城は後年の創作といわれてきたが、最新の研究で創作説が覆された。
1959年、かつて秀吉に仕えていた一族の蔵から武功夜話という古文書が見つかった。墨俣一夜城は城ではなく砦だったと考えられる。木曽川で勢力を誇ったとされる野武士集団・川並衆の中心人物だった蜂須賀正勝は1566年から秀吉に仕えその後城持ち大名にまで出世した。
墨俣一夜城には物流の要を握っていた川並衆の協力があった。実際に一夜で完成したわけではなく短期間でつくったことを大げさに一夜と書いたと考えられる。
秀吉がなぜ農民から天下人になれたのか、その鍵となったのは兄弟の秘密がある。ここまでに見つかったキーワードは「お◯◯◯の◯◯◯◯か◯た」。
秀吉が城持ち大名になった大きなきっかけは織田信長が敵対していた浅井長政との戦。難攻不落の城として有名で信長は3年攻略できなかった。その理由は守りを重視して山の上に城を築いていたため。山の尾根づたいに城の設備があり細長い1本道で狙い撃ちされてしまう。秀吉は小谷城の目と鼻の先の距離にある虎御前山の最前線に砦を構えお互い相手に丸見えだった。秀吉は3000人で崖を攻め上り奇襲をかけて浅井家は滅亡。
秀吉は小谷城落城の1年前に虎御前山に続く軍用道をつくっていた。高さ3.78m、長さ5.5kmの塀をつくり人が集まる様子を隠していたことが奇襲作戦につながった。長浜城歴史博物館にはこの戦の最中に書かれた弟・秀長が書いた手紙が残っている。戦で住む場所を追われた農民たちをケアするために出した手紙。軍用道は農民の力を借りてつくった可能性がある。難攻不落の城を落とせた理由は、奇襲を成功させるための周到な準備と農民の協力。
小谷城での活躍で秀吉は大名となりライバルたちと出世競争に。本能寺の変が勃発し家臣・明智光秀による裏切りにより織田信長は本能寺で討たれてしまう。毛利軍と戦っていた秀吉は本能寺の変の翌日にその知らせをキャッチ。約2万の軍勢を連れて約230kmの距離を約1週間で戻り光秀軍に勝利した。これが世にいう中国大返し。秀吉が光秀をすぐに討てた秘密は光秀との最終決戦・山崎の戦いで秀吉が本陣を置いたといわれる宝積寺にある。秀吉は短期間での建築が大得意で一夜之塔は山崎の戦いの戦勝を記念して一夜のうちに造られたと伝わる。
6月2日未明に本能寺の変が勃発。反信長派の雑賀衆が毛利輝元に信長の死を伝えようとした裏で、秀吉の家来で京都の商人でもあった長谷川宗仁も秀吉に信長の死を伝えようと動いていた。秀吉が知らせを受けたのは6月3日夜。そのおかげで4日には和睦し中国大返しが可能となった。一方、毛利サイドは6月5日に信長の死を知った。当時の移動手段は馬か徒歩で使者は船で渡ったという説もあるが、最新研究では秀吉の元に信長が来ることは決まっていたため御座所を準備をしていたことが分かってきた。点在する御座所が情報伝達網として機能し素早い情報伝達が可能となったと考えられる。中国大返しでも御座所は活躍した。
昨年、秀吉が敵に送った契約書が発見された。秀吉は信長の死を知る前から敵方の武将たちの調略を進めていたため本能寺の変を知ってすぐに和睦ができた。この古文書はネットオークションで東京大学史料編纂所の先生が発見したという。秀吉が信長の死をすぐに知ることができた理由は、土木・建築能力を活かし情報網を築いていたから。
